麻生区黒川の北部に開発の波が押し寄せ、当初は小田急・京王が新線ルートを計画して開発に着手、
その後、日本住宅公団に開発事業がバトンタッチされて、現在の「はるひ野」が、黒川地区に誕生した。
黒川の地名から新しく誕生した「はるひ野」名称が官で正式に使われたのが、平成18年3月13日(2006.03.13)だった。
「はるひ野」という地名がどのようにして生まれたのか?
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麻生区黒川の北部に開発の波が押し寄せ、当初は小田急・京王が新線ルートを計画して開発に着手、
その後、日本住宅公団に開発事業がバトンタッチされて、現在の「はるひ野」が、黒川地区に誕生した。
黒川の地名から新しく誕生した「はるひ野」名称が官で正式に使われたのが、平成18年3月13日(2006.03.13)だった。
「はるひ野」という地名がどのようにして生まれたのか?
多摩よこやまの道には 昔の住宅公団、多摩市が設置した解説案内板が要所要所に設置されています。
その中の一つに「瓜生黒川往還」があります。
そこには 汁守神社からよこやまの道へ至る一つの道の解説がされています。
黒川の人たちがその道を「海道(かいどう)」と昔から読んでいますが
解説では「海道」を「街道」を意味する字名(あざな)であると記されています。
一方、川崎市が発行した「川崎地名辞典(下)」では
黒川の道である「海道」という字名は「街道」とは無関係であると記されています。
よこやまの道にある「海道」の解説文は多摩市在住の歴史家が起こされたものでありますが
昔のことでありどちらが正しいのか判断が難しい所です。
わたしたちの故郷(ふるさと)、麻生区の古(いにしえ)は、古老に伝承されている知識・情報によって知ることが多くあります。
古老たちの経験や体験を織り込んだふるさとの情報は、大変貴重です。
今から32年前に麻生区に住む先輩諸氏たち(麻生区老人クラブ連合会)が、未開の文化財を掘り起こし、文と写真にまとめ自らのふる里探訪を兼ねて
伝承誌を発刊しようと企画し平成元年に『歩け歩こう 麻生の里』が生まれました。
山の小道、谷戸坂、お宮、お寺、路傍の石仏、碑、旧家、古老の話などを 耳で聞き、目で見、ノートに書留める作業6か月続いたそうです。
完成した本は、会員延べ500人の汗の結晶として、麻生区を終生のふる里とする息子や孫たちのために利用してほしいという念願が込められたものです。
管理人は市販されずに限定出版された『歩け歩こう 麻生の里』を大先輩から譲り受けました。 (参考:過去記事 黒川の谷戸と婆々尾根)
(黒川の歩み・歴史関連記事索引)
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身の回りの整理をしていたら、今から31年前の昭和58年(1983年)の新聞記事切り抜きが出てきた。
メモ書きには、「58.10.14」とだけあり、新聞社名が不明。
小田急多摩線、京王相模原線が開通したのが昭和49年、はるひ野地区の開発に公団が参画し開発の基本計画に地権者総会で了承して環境アセスが始まったころの新聞記事。
麻生観光協会の観光ガイドが、麻生区内の街々の歴史をたどって訪ね歩く歴史散歩を実施しています。
昨年の11月18日に実行した、観光ガイドによる『旧黒川村の歴史を知ろう』で、参加者に配布した資料が、とてもよくまとまっているので、紛失しないようにインターネットにアップしました。
どうかお時間のある方は、自分たちが住む黒川地区の歴史・史跡等をこの資料で学んでいただければとお勧めします。
後ほどこのブログでご案内いたしますが、来る10月23日(水)に麻生観光協会のガイドがご案内する『旧黒川村の歴史散歩』が企画されています。
当日は、はるひ野駅集合で明大黒川農場見学もコースに含まれていますので、興味のある方は予定をしてください。(詳細は後報)
昭和58年(1983)黒川にあった柿生小学校黒川分校が閉校になったのを受けて、開校した川崎市立栗木台小学校(校長:堀 久男氏)。
黒川に川崎市立はるひ野小中学校が開校した平成20年(2008)までの25年間、黒川地区の児童生徒が通った栗木台小学校が今年の4月に創立30周年を迎えました。
それを記念して12月1日(土)に栗木台小学校で関係者を招いた「創立30周年記念式典・祝賀会」が盛大に催されました。
創立30周年スローガンは 「はじける笑顔 分かち合う心 栗っこパワーで 未来へつなげよう」
当日は創立30周年テーマソング 「未来へのバトン」も披露されました。
(左:創立30周年記念シンボルマーク)
かってチラッと聞いたことがある興味深い話が、日本経済新聞朝刊(平成24年10月30日)の首都圏欄に掲載されていた。
東京都は23区と多摩地区に分かれている。
その多摩地区はもともと神奈川県だったというのだ。
今から119年前の明治29年(1893年)に現在の多摩地域が、神奈川県から東京府に移管されたという。
続きを読む身辺整理をしていたら、昭和58年3月1日(1983年)のタウン誌「マイタウンらぶりぃあさお」が出てきた。
麻生区が誕生したのが昭和57年。今から29年前のタウン誌だ。
そこには「さようなら、黒川分校!百九年の歴史と共に」という記事が掲載されていた。
黒川分校は、平成3年8月1日に「川崎市黒川青少年野外活動センター」として生まれ変わってオープンし、早いもので今年で20周年を迎えた。
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黒川上地区に鋭意建設中であった 明治大学130周年記念事業「明治大学黒川農場」が竣工し、4月からの開講に向けて関係者への披露が3月21日(水)に行われた。
黒川でささやかながらも農業を行っているぐうたら百姓の管理人は、大学の農学部が中心になって創られた新農場を興味深く視察させていただいた。
環境・自然・地域の3つの共生コンセプトのもとに、太陽光や風力などの自然エネルギーを利用した資源循環型の生産方式を導入。
地域住民・市民らを対象にした農業研修も企画され、未来型のアグリエコファームを目指す農場が完成した。
川崎市では黒川上地区を農業公園構想に位置付けており、農協の大型農産物直売所「セレサモス」との連携により、地域農業の振興・発展、また貴重な里山の自然環境維持が期待されている。
続きを読む川崎市立柿生中学校内に創設された「柿生郷土資料館」が、「郷土資料友の会」会員向け発行している機関誌『柿生文化』がある。
その『柿生文化』第35号(平成23年4月28日)に、『歴史に学ぶ 関東大震災と柿生・岡上…1923年9月1日』という記事がある。
続きを読む「栗木―明日へ語り継ぐ―」というタイトルの栗木の街の歴史と変遷を含めた記念誌が3月に発行された。(非販売品)
発行は栗木町内会・栗木第二土地管理組合。
記念誌は 第一章 栗木の歴史と変遷、第二章 暮らしの中の信仰、第三章 暮らしと文化、第四章 変わりゆく町、第五章 栗木町内会と地域活動、第六章 思い出を語る の六章からなる。
総ページ数220ページ、堅牢な装丁本で、カラー写真を含む歴史的でかつ貴重な写真をたくさん含むとても素晴らしい出来上がりで、後世に貴重なデータを残す記念誌。
栗木には、大正時代初期から伝えられている「粉屋踊り」という民族芸能があったことが知られているが、それに関する詳細な記述もある。
「よくぞまあこんなことが言えたものだ」と感心させられたり、あきれさせられたりする文書。
今から360年前の江戸時代に、農民宛に出された生活上の指針ともいうべき文書です。
わたし達の先祖の生活が偲ばれ、苦々しい気持ちで従わざるを得なかったのかなと思います。
続きを読む明治21年の黒川・栗木・片平の概況資料が手に入ったのでご紹介します。
当時の
<出典は、「神奈川県都築郡
戦争が終わり、昭和二十二年四月「学校教育法」の制定によって国民学校は再び小学校となり、名称も「
明治20年以来、黒川分教場は汁守神社の裏手にあった。大合併の後も黒川の4年以下の児童が授業を行っていた。
大正12年の関東大震災で汁守神社の裏手にあった黒川分教場も大被害を受け、新築移転をせざるを得ない状況になった。
続きを読む当ブログの読者の方から、明治時代の学校に関して、興味のあるご指摘・ご教示がありました。それは現在の
明治19年の小学校令により、親に子どもを小学校に通わせる義務を負わせました。そしてこの年から尋常小学校4年、高等小学校4年の修業年限を定めました。義務教育となると学校に通う子どもが多くなり、台の学校では狭くなりました。
続きを読む江戸時代の末期から黒川では、市川角左衛門さんという方が自宅で私塾を開き子ども達に読み書きを教えていました。市川角左衛門さんは明治25年〔1892年〕78歳で亡くなりました。当時の黒川の村民と市川塾に通ってきていた近隣の村の教え子たちが市川翁の業績をたたえて石碑を建てました。
「新編武蔵風土記稿」の「
黒川と隣りの
いろいろな規則
五人組のこと、切支丹のこと、衣食住のことなど数十ヶ条にわたり、微にいり、細にわたりつくりました。これを下々まで徹底するため、正月・五月・七月・九月・十一月の年四回、村中大小の百姓を集めて、納得のいくように申し聞かせました。そのうちの数ヶ条を記してみます。
続きを読む応仁元年(1467年)には「応仁の乱」が起き、今日の京都周辺は焼け野原となり、幕府には何の力も無いことが明らかになります。中世末期の日本は、戦国大名が各地に割拠する戦国時代を迎えます。このころ小田原城の城主となった、北条早雲も、風雲に乗じてのし上がった一人です。
鎌倉道とか鎌倉街道とか呼ばれる道は、関東一円の武士が、「いざ鎌倉」という時に鎌倉へ馳せ参ずる軍道でした。新田義貞が鎌倉討伐のために通った上ノ道(信濃道)、奥州方面への道として中ノ道、房総・常陸への道としての下ノ道を基本ルートにして、それらにつながる間道、支道、連絡道を含めて鎌倉道と呼んでいます。
続きを読むしばらく休んでいました黒川関連の歴史について触れます。お付き合いください。
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源頼朝は、鎌倉に本拠を置き東国の武士団を組織し、わが国最初の武家政権である鎌倉幕府を1192年に開きました。
7世紀の半ばの645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)がクーデターで政治の実権を握り、中国の制度にならい「大化」という元号を定め、政治の基本理念を示しました。
ふるさとの昔を考察する際に、貴重な文献として避けて通れないものの一つに「新編武蔵風土記稿」があります。今日は、「新編武蔵風土記稿」のなかで、黒川について触れている八十六巻をご紹介いたします。昔の記述を転記したため、原本に100%正確では無いことをお許し下さい。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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