ここには管理人の水田、畑、雑木林がありました。
小学生の頃は父母と一緒に田んぼや畑に連れていかれ農作業を手伝っていました。
そのころ この里山に治水ダム建設の話があり、子供心にダムができたら
ダムサイトで団子屋を開業しようかと夢を見たこともありましたが、
土質に砂地が多く計画は頓挫しました。
その後、ここに乗り入れる計画の小田急と京王が土地開発を始めましたが
途中から住宅公団が計画を引き継ぎ、現在の街が形成されました。
(写真をクリックすると拡大表示)ここには管理人の水田、畑、雑木林がありました。
小学生の頃は父母と一緒に田んぼや畑に連れていかれ農作業を手伝っていました。
そのころ この里山に治水ダム建設の話があり、子供心にダムができたら
ダムサイトで団子屋を開業しようかと夢を見たこともありましたが、
土質に砂地が多く計画は頓挫しました。
その後、ここに乗り入れる計画の小田急と京王が土地開発を始めましたが
途中から住宅公団が計画を引き継ぎ、現在の街が形成されました。
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公団が開発計画を策定し推進したため、民間の開発とは異なり、ゆったりとした街づくりが推進されました。
ただ私達地権者が所有していた土地は ゆったりとした余裕のある街づくりの公団スタイルのため
減歩率が高く開発後に戻された土地は 思ったよりも少ないという現状でした。
街の開発計画は公団とともに そこの地権者の一人であった管理人も参画し
初めから今までを見つめてきました。
(写真をクリックすると拡大表示)
「はるひ野」という町名は 「新町名地番検討会」で検討され黒川町内会、黒川特定土地区画整理事業地権者会、
川崎市計画土地区画整理事業黒川特定土地区画整理審議会、くろかわ「はるひ野」まちなみ協定運営委員会の各組織の代表者で構成されていました
「はるひ野」という名前が初めて登場したのは、平成12年秋ごろの はるひ野地区の土地地権者会の席上で、
当時の住宅公団黒川事務所の深津業務課長が、新町名について公団内部の資料に基づき
「他地域で使われていない地名で 馴染みやすい、若々しいイメージ」の言葉として、提案されたのが最初でした。
その提案された地名案は、「みずき野」「はるひ野」「万葉の丘」の三案でした。
(別紙、当時の提案された資料参照は ここをクリック)
新町名案については「はるひ野」案と「黒川はるひ野」案の二つが最終案となりました。
由緒ある「黒川」には愛着があり、残すことにこだわりたいと言う」意見の一方「黒川」がつく町名は、
従来の「黒川」のほか、「南黒川」もあり、その上「黒川はるひ野」となっては訪問者等の混乱を招き、
名称として長いので、「はるひ野」案で新しい街のイメージを作っていくことが出来るであろうという意見でした。

「はるひ野」 に込められた意味合いは、
「はる」は季節の始まり、これから花開く街の成長を意図し、
「ひ」は当地区がおおむね「東」「南」向きであることから、暖かさを表わし、
「野」は無限の広がりを象徴し、春の萌える木々、咲き乱れる草花に陽光がふりそそぐ
明るく健康的な街をイメージしています。
「はるひ」は安らぎ、優しさ等を呼び起こす「ひらがな」表記としました。
「野」は「春の小川、野原」を意味し、牧歌的雰囲気、明るい広がりを表現しています
尚、この「はるひ野」という名前は公団が 当時において登録商標し特許庁により保護されていましたが
現在は継続登録事務がなされていません。
「はるひ野」は 開発前の黒川北部の里山に生まれた新市街地であり 黒川地区に含まれています。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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