
麻生区黒川の北部に開発の波が押し寄せ、当初は小田急・京王が新線ルートを計画して開発に着手、
その後、日本住宅公団に開発事業がバトンタッチされて、現在の「はるひ野」が、黒川地区に誕生した。
黒川の地名から新しく誕生した「はるひ野」名称が官で正式に使われたのが、平成18年3月13日(2006.03.13)だった。
「はるひ野」という地名がどのようにして生まれたのか?
麻生区黒川の北部に開発の波が押し寄せ、当初は小田急・京王が新線ルートを計画して開発に着手、
その後、日本住宅公団に開発事業がバトンタッチされて、現在の「はるひ野」が、黒川地区に誕生した。
黒川の地名から新しく誕生した「はるひ野」名称が官で正式に使われたのが、平成18年3月13日(2006.03.13)だった。
「はるひ野」という地名がどのようにして生まれたのか?
開発地区内に土地を所有していた地権者と日本住宅公団との間で、新しく生まれる街について何度も会議を重ねていた。
平成13年4月22日(2001.04.22)に開催された地権者と日本住宅公団との会議において、
新しく誕生する『黒川地区「愛称」選考について』の会議が行われた。
従来の公団が行ってきた開発地の愛称は、日本住宅公団で決定するのが決まりだったが、
この黒川地区については地権者の意見を尊重するということで地権者に図ってきたのだった。
その際に地権者からも多くの意見が出されたが、日本住宅公団が用意してきた愛称候補の中から選ぶことになった。
日本住宅公団が候補に挙げてきたのは、『みずき野』、『はるひ野』の二つだったが、
会議で『万葉の丘』という地名もあがり、この中から選ぶことになった。
最終的には、『はるひ野』が選ばれた。
理由は、言葉が持つ明るいイメージ、健康的なイメージなどであったが、大きな理由の一つに、
この地名が日本全国を調べても、何処でも使われていない新鮮な地名だったことだ。
公団がコンピューターを使って調べた結果、全く新しい、日本のどこにもない地名が『はるひ野』だったことだ。
日本住宅公団が開発したお隣の稲城市にある『若葉台』という地名は、同じ地名が横浜市にあり紛らわしいが、
『はるひ野』は日本全国を探しても黒川地区にしかないのだ。
すかさず日本住宅公団は、 『はるひ野』という地名を商標登録し、
みだらに他地区や他の民間業者が使えないような法的な措置をとって護る手続きを行ったことに敬意を表したい。
(参考:平成13年4月22日に開催された地権者と日本住宅公団との会議において使われた
『黒川地区「愛称」選考について』という会議資料、管理人がメモをかき込んでいる)
日本住宅公団が候補に挙げてきたのは、『みずき野』、『はるひ野』の二つだったが、
会議で『万葉の丘』という地名もあがり、この中から選ぶことになった。
最終的には、『はるひ野』が選ばれた。
日本住宅公団が「はるひ野」という地名に込めた意味と期待は 次の通りだった。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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