齢78歳の後期高齢者となった管理人 やまざる。
最近 つとに自分の父親・母親の偉大さ・有難さに気付いている。
農家の長男として 大正9年生まれの父親は 先祖伝来の黒川にある農地で
主食の米や小麦、野菜を生産して日々の生活を支えてきた。
当時の農機具は 耕運機や刈払機などはなく
昔からの鍬(くわ)、鎌(かま)、鉈(なた)などを使って田畑を耕していた。
米は種まきから田起こし、田こね、苗の植付、刈り取り、乾燥、脱穀、籾摺りと
すべて自分の肉体を酷使して働いていた。
齢78歳の後期高齢者となった管理人 やまざる。
最近 つとに自分の父親・母親の偉大さ・有難さに気付いている。
農家の長男として 大正9年生まれの父親は 先祖伝来の黒川にある農地で
主食の米や小麦、野菜を生産して日々の生活を支えてきた。
当時の農機具は 耕運機や刈払機などはなく
昔からの鍬(くわ)、鎌(かま)、鉈(なた)などを使って田畑を耕していた。
米は種まきから田起こし、田こね、苗の植付、刈り取り、乾燥、脱穀、籾摺りと
すべて自分の肉体を酷使して働いていた。
運搬も自転車かリヤカー、自宅から今のはるひ野の田に行くときは
籠(かご)や背負子(しょいこ)で米やさつま芋などの農産物を背負って運んでいた。
朝露で濡れている方が草の切れが良いと 朝も朝食前に田畑の畔や道の草刈りに行っていた。
雨が降って外に出られないときは 小屋で藁(わら)を編んで縄を作り、蓆(むしろ)を作っていた。
5月になればお茶の葉を摘み、自宅で蒸して底には紙で作った焙煎炉で お茶の葉を煎って茶葉を自作。
たわわに実った青梅をつける作業もあった。
自家用の味噌、醤油も大きな樽で仕込んで作っており、
油は材料のゴマや大豆を専門とする油絞り業者に依頼し作っていた。
毎日の主食は 麦飯に大根やナスの漬物、週に何回かは自作の小麦粉を使った手打ちうどん。
学校の弁当は 梅干し入りの海苔弁当
現金収入は 米や麦を知り合いのブローカーが時々買いに来るので 売り渡し、
庭先で飼っていた鶏の卵も週に2−3回、近所の雑貨屋に売りに行って現金を得ていた。
黒川の朝もぎトマトは有名で その日の夕方には近所の八百屋の店頭に並び評判で
これは良い現金収入となっていた。
今も黒川では盛んにトマトが通年栽培している農家がある。
また子豚を育てて 成長してから売るということもしていた。
自分の小学生時代は 学校から帰ってくると 鳥小屋の卵を採集。
鶏と豚にエサ(ふすまが多かった)を与えた、
そのあと土釜でご飯を炊き、風呂釜に薪をくべて風呂を沸かす仕事をしたものだ。
今のキャンプ生活ではなく 毎日がそのような生活だった。
暗くなって田畑から帰ってくる両親のために 実質的な家事をしていた。
思うに昔の農家は 休むことなく朝から晩まで 肉体を駆使して農作業中心の つつましい生活をしていた。
娯楽はラジオの放送を聞くことくらいで テレビは無かった。
よく広沢虎造の浪花節が ラジオから流れていた。
母の楽しみは 菊田一夫原作のラジオドラマ「君の名は」を耳を澄まして聞くことだった。
そのような父のある姿を思い出し、今の自分がある基礎を黙って築いてくれたことに感謝している。
母も父と一緒に畑に出て 農作業の労働力として働いてくれていた。やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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