2022年12月31日

昔の年越し風景(黒川)

除夜の鐘1



昔、今から5−60年前の黒川は専業農家も多く わらぶきの農家が殆どでした。

その当時12月下旬の黒川の農家では、お正月を迎える準備に忙しい日々が続いていました


山から切り出した竹笹を使って、農家の土間を中心に家族総出で、すす払い(大掃除)を行いました。
おかずや味噌汁を煮炊きするための囲炉裏と、ご飯を焚くかまど、風呂釜などから出る真っ黒のすすが
天井から面白いように降ってきました。
当時はプロパンガスなどもなく、燃料は里山から取ってきた雑木と落ち葉が主体でした。

 

黒川でプロパンガスが使えるようになったのは、昭和36年(1961年)のことです。
余談ですがプロパンガスが入ってくると、里山へ燃料の雑木を取りに行く必要がなくなりますので、

里山の手入れがおろそかになり、山が荒れるという現象が起きて現在に至っています。

 

農家の玄関入口には、山から切ってきた松を使って門松を飾りました。

玄関の向かって右側には男松(黒松)左側には女松(赤松)竹笹をそれぞれ飾ります。
松といっても葉先だけでなく直径5−6cm、長さ1mの松の木を杭状に切って玄関の脇に突き刺しました。

玄関の上には、今年の稲わらを使って主人が手作りのしめを飾ります。

 

12月28日には多くの家で、正月用餅つきが行われます。

28日は、日が良いとされていました。
農家の土間に昔からの欅(けやき)で作った臼を置き、かまどではその年の新米のもち米を

せいろで蒸かして、威勢よく父親がつき、母親がこね役(かえし役)でした。

大体1升から1.5升のもち米で、10から20臼の餅を一気につきます。

餅が柔らかいうちに、神様に備えるお供え餅(鏡餅)を先ず作ります。次に当日の食べる餅として、

あんころ餅、きな粉餅、大根としょうゆの入った辛味餅が作られます。

 

残った多くの餅は、平らに伸ばされたのしで、一つの座敷を全て埋めるぐらいの量がありました。
バリエーションの餅として、粉状の青海苔を餅の中に入れて、緑色の海苔餅もつきました。

この餅が三月のお雛様の餅つきまでの間の大事な食料になります。

 

夕方囲炉裏で味噌汁を煮ている時などは、燃える火のそばで餅を焼きました。
座敷で暖を取る火鉢の上でも餅を焼きました。

 

のし餅が硬くなり始めたら1cmぐらいのサイコロ状に切り、あられにします。
これも囲炉裏の上で、ほうろくを使ってあられを炒り、軽くしょうゆをまぶして

冬の間の子供達のよいおやつになりました。

 

時間が経ったのし餅は、冬とはいえどカビが生えてきます。
そこで山からの清い水を入れた甕(かめ)の中に切ったのし餅を入れて保存します。
これが水餅です。

 

大晦日には、神棚を祓い清め、お社から古いお札を出して、氏神様である汁守神社を通して授かった新しいお札

天照皇大神宮(あまてらすおおみかみ)」「汁守神社祈祷神璽」「家内安全祈祷大祓」「御守護」などを納めます。

 

新しい榊(さかき)の葉、米、酒、塩、水をお供えして新年を待ちます。
年神様(年の初めにお迎えしてお祭りする神様)、三宝荒神様(かまどの神様)、

水神様(川の神様、水の神様)、火の神様(火を司る神様)もお祭りします。

 

また大晦日には、これも各家庭で作った小麦粉を用いたうどんを作り、

夕食は家族揃って紅白歌合戦を見ながら、年越うどんを食べました。

 

ラジオで新年のカウントダウンを聞き、年が明けたらすぐに井戸へ走って新しい水を汲み、

神様と仏様の双方に「若水」として差し上げました。

 

正月3ヶ日は、主人である男の人が朝のお雑煮を作りました

日頃の女の人の食事準備の苦労を3ヶ日だけでも、楽にしてあげたいというしきたりでした。
このときだけ女性陣は「雑煮の支度ができたぞ!」という男の声を聞くまで朝になっても布団の中で、

ゆっくりと休むことができました。

子供達は3ヶ日の朝のお雑煮で、いくつの餅が食べられるかを競ったものです。

 

元旦の朝 お雑煮を食べた主人は、氏子として村の鎮守様である汁守神社へ、

初詣の新年の挨拶と祈願に行きます。
神社の拝殿で神様に祈願を行った後、社務所兼公会堂に氏子が集まり、

お神酒を酌み交わして親しく歓談します。

 

また菩提寺である西光寺へも初詣に行き、お寺様に新年の挨拶を行います。

お寺様でも檀家の人に対して、接待がありここでは、般若湯(ハンニャトウ、お酒)が振舞われます。

 

元旦は、この汁守神社への初詣と、菩提寺への初詣を行うのが慣わしで、それが済んでから

自宅でゆっくりと届いたばかりの年賀状を見るなどして、新年を祝います。

 

子供達は、凧揚げに興じました。風が常時吹いている山の上近くにある畑が、絶好の凧揚げ場でした。
畑ですので、木立などの障害物がありませんでした。
凧の足には新聞紙を切って使いますが、その長さなどをそれぞれ工夫しました。

 

いまでは昔の風情を残す わらぶきの農家も数少なくなり、現代的なつくりの家が増えたため、

土間もなく、家で臼と杵を使って餅をつくということは殆どなくなりました。

 

門松も本当の松と竹を使ったものの飾りつけは、殆ど見られません。
里山が消えたのも大きな原因でしょうか?

 

昔の風習が少しずつ消えていくのを寂しく感じるのは私だけでなく、また歳のせいばかりではないでしょう。


Posted by tomato1111 at 00:00