その「よこやまの道」のルート上にある説明看板に、「黒川はるひ野」に関するものがある。
そこには「黒川(くろかわ)」という名前のルーツに関して説明されているがこれは明らかに事実から程遠いもの、勘違いではないかと管理人は考えている。
その「よこやまの道」のルート上にある説明看板に、「黒川はるひ野」に関するものがある。
そこには「黒川(くろかわ)」という名前のルーツに関して説明されているがこれは明らかに事実から程遠いもの、勘違いではないかと管理人は考えている。

看板では『「黒川」の名の由来は、川の水が澄んで川底が黒く見えたためと言われています。』
と説明している。
この記述の基になったのは、かっての「都市基盤整備公団 神奈川地域支社 黒川開発事務所」(旧 住宅公団、旧 都市整備公団)(現在は独立行政法人 UR都市機構)発行の はるひ野を紹介するパンフレット「ひとにやさしいまちづくり はるひ野」の中で、一言一句同じ説明をしている。
例えば子供に「黒川の名前は、どうして決められたの?」という質問をしたときに、思いつきでそのようなことを言うかも知れないが。
今までに管理人が調べた事実の一部をご紹介し、黒川の名前のルーツを探ると次のようになる。
(1)「新編武蔵風土記稿」の「黒川村」によると、真言宗墨仙(くろかわ)山 金剛寺は、上黒川(かみくろかわ)の毘沙門大堂の近くにあった。
廃寺(金剛寺)の近くにある毘沙門大堂には、行基(668年生まれ、749年82歳で病死)の作と伝えられている毘沙門天が祭られている。
金剛寺と毘沙門大堂が、同年代に存在していたと仮定すれば、毘沙門天の作者が行基であると伝えられているので、今から1250年前には真言宗墨仙(くろかわ)山 金剛寺と共に、「墨仙(くろかわ)(黒川)」の名前が存在していたと考えられる。
(2)次に「柿生・岡上組合村誕生100年記念誌 屋号と家紋」という書籍に掲載されている「黒川の地名の由来と歩み」を転載すると次のようになる。
(これもきちんとした文書による説明ではなく、口伝によるものと思われるので正確性は乏しい。)
黒川の地名の由来と歩み
炭=黒川炭といわれ産額の多かった黒川、炭の皮の色から黒川炭と呼ばれ クロカワになったとか、あるいは七ヶ所もある狭い谷から流れ出る谷川がおよそ28町(3km)も田んぼの畔(クロ)を流れるので クロカワと呼んだとか言われていますが、黒川炭の歴史はたかだか2〜300年。
それ以前に黒河郷など黒川なる地名はあったわけですから、あたらないのではないでしょうか。
土地の人は黒川を流れる三沢川には、黒くて丸いすべすべした照りのある石が沢山出て、終戦後など盆石に利用しました。こんなことも黒川の地名の由来ではないかといっています。
(3)黒川の地名が歴史上初めて見られるのは、今から六百二十年ほど前の南北朝時代のこと。 小山田庄 黒河郷(くろかわごう)と呼ばれ、お仁々局という女性が所有していましたが、貞治(ジョウジ)六年(1367年)、お仁々局が黒河郷の半分を円覚寺の塔頭(タッチュウ)黄梅院に寄進したため、黄梅院の所領となった。 この間には、黒河郷の領有権をめぐる横領や訴訟事件があったことを黄梅院文書から知ることができる。 (資料:「麻生区のなりたち」から引用)
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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