2009年05月14日

映画「楢山節考」…しんゆり芸術祭

楢山節考 photo川崎・しんゆり芸術祭2009の一環として、川崎市アートセンター アルテリオ映像館では、4月25日から5月15日まで特集『いまに生きる 今村昌平』というタイトルで、故今村昌平監督作品が上映されている。

 

しんゆり芸術祭の最後のプログラムとして、深沢七郎原作の「楢山節考(ならやまぶしこう)」を鑑賞した。

 

この作品は、1983年カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞作品。 (左写真:アートセンターHPより転載)


作品の紹介は、アートセンターのパンフレットによれば、

***楢山節考***

 

1983年作品。35mm。上映時間131分。

原作:深沢七郎 脚本・監督:今村昌平

キャスト:緒方 拳、坂本スミ子、あき竹城、左 とん平、辰巳柳太郎、清川虹子 常田富士男、ケーシー高峰、倍賞美津子・・・

 

*人生の究極の意味としての生と死を問う

 

うば捨て伝説をもとに、自ら死に支度に没頭するおりん(坂本スミ子)と、悲しみ苦悩しつつ母を捨てる辰平(緒方 拳)らの姿を描く。1958年の木下恵介に続く同名小説の映画化。

 

久し振りにじっくりと大型スクリーン(H2.8mxW5.18m)に映し出されるフィルム映画を鑑賞した。

毎日見ている地上波デジタルやBS放送の写真・絵葉書のようなクリーンな映像でなく、人間の感性にフィットしたフィルム特有の落ち着きのあるしっくりした映像に、2時間酔いしれた。

テーマは、貧しい山奥の寒村では食糧不足のため・人口抑制のため長男しか結婚できず、70歳を過ぎた老人は子に背負われて山奥の楢山に捨てに行かねばならないという風習を映す。

 

山奥の寒村の風景と四季を背景に、貧しい家族の日常生活。

貧しい中での人間の生と性を織り交ぜ、また蛇、カエル、蛾などの性行為を丹念に撮影して人間の行為と巧みにモンタージュした映像が印象的、

人間の生や死も動物たちの生や死と同じ自然の環境の一部として描かれている。

 

フィナーレの老母が息子に背負われて楢山に捨てに行かれるシーンは、思わず息を呑む圧巻。

紅葉した奥深い山を一途に母を背負って楢山に向かう。

楢山には数えきれないほどの白骨化したガイコツや肉片がついている死骸があちこちに散在し、無数のカラスが待機している。

 

楢山で母と最後の別れをしたら、伝説どうり雪が舞い あたり一面が白銀の世界になる。

すべてが白色の世界になり、すべてが清められるという意味か。(一部は佐藤忠男氏の解説を参考にした。)

 

ある解説書によれば、老婆役の坂本スミ子は、この作品のために前歯4本を取って演技にあたっとある。その凄惨な配役に対する姿勢に感服する。

 

(余談1)

深沢七郎fotoわたしが独身時代のサラリーマンだったときのこと。

深沢七郎に関心を持ち、彼が57歳当時、墨田区向島で「今川焼屋『夢屋』」を開いたときに無償で応援に行き手伝ったことがある。

 

曳舟駅近くの路地裏にある木造の間口が2間にも満たない侘しいお店だった。

彼は一生のうちに一回は今川焼屋をやりたかったとのことで、埼玉にあった「ラブミー牧場」とこの今川焼屋の間を行ったり来たりしていた。

冬の寒い時期は、牧場ではなく今川焼屋をしたかったと言っていた。

 

そして彼の焼く今川焼は自分から「正直今川焼」と称していた。

なぜなら北海道から取り寄せた小豆に、人工甘味料を一切使わず砂糖だけで甘みを出した餡子(あんこ)に誇りを持っていたのだ。

 

そして交友のあった横尾忠則がデザインした一風変わった包装紙にくるんで販売していた。この包装紙だけでも価値のあるものだった。

 

深沢氏から小説「楢山節考」本にサインと色紙を頂いたのが良い記念だ。

 

(余談2)

道路の尻手黒川線で黒川と栗木の境にある頂上付近で栗木側に「婆々尾根(ばばおね)」という昼間でも薄暗い崖があった。

黒川青少年野外活動センターの下側で、黒川から栗木に向かって左側に「婆々尾根」があった。わたし達が子供のころは、道路は舗装されておたず近くには人家もない暗いさびしいところだった。

わたしは、確たる証拠や証言を持たないが、この場所ははるか昔の近隣の「姥捨て場所」だったのではないかと思うときがある。

もしそうだとすれば、深沢七郎が生まれ育った山梨を舞台にした姥捨て伝説が、黒川にもあったことになるのだが!

 

(参考)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

深沢七郎(ふかざわしちろう)

 

(1914129 - 1987818日) 。日本の小説家、ギタリスト

山梨県東八代郡石和町(現笛吹市)に生まれる。中学の頃からギターに熱中し、ギタリストとなる。1954年、「桃原青二」の芸名で日劇ミュージックホールに出演した。

 

1956年に姥捨山をテーマにした『楢山節考』を中央公論新人賞に応募、1回受賞作となった。三島由紀夫らが激賞して、ベストセラーになった。

 

1965年、埼玉県南埼玉郡菖蒲町に落ち着き、上大崎の見沼代用水近くに二人の若者を連れて「ラブミー農場」を開き、以後そこに住んだ。

 

19681031日、心筋症による重度の心臓発作に見舞われ、生死の境をさまよった。以後、亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることとなる。

 

1971年、東京都墨田区東向島の東武曳舟駅の近くで今川焼屋「夢屋」を開く。包装紙を横尾忠則がデザインしている。

 

1987818日、心不全のため73歳で死去した。告別式では、遺言に従ってフランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲』やプレスリー、ローリングストーンズなどをBGMに自ら般若心経を読経したテープや、自ら作詞した『楢山節』の弾き語りのテープが流された。


Posted by tomato1111 at 00:05│忙中閑