オペラファンなら知らない人がいないくらい有名なテノール歌手。
2007年9月6日に72歳でこの世を去ったイタリア生れの「ルチアーノ・パヴァロッティ」(1935年生れ)、
スペイン・マドリードで1935年生まれの「プラシド・ドミンゴ」、
同じスペイン・カターニャに1946年に生れた「ホセ・カレーラス」の3人。
オペラファンなら知らない人がいないくらい有名なテノール歌手。
2007年9月6日に72歳でこの世を去ったイタリア生れの「ルチアーノ・パヴァロッティ」(1935年生れ)、
スペイン・マドリードで1935年生まれの「プラシド・ドミンゴ」、
同じスペイン・カターニャに1946年に生れた「ホセ・カレーラス」の3人。
サッカーファンの3人が、1990年サッカーワールドカップに際して、ローマ・カラカラ浴場の特設スタジオで演じられた最初の世紀の競演ライブ録音版を視聴した。
指揮は、一昨年のウイーンニューイヤーコンサートで指揮をしたズービン・メータ氏。
これには感激した。
すごい、素晴らしい、そして楽しい競演。
まさによく実現したと思うくらいの夢の競演だ。
舞台が歴史のある石造りのローマ遺跡。
演奏が日本にも来たことがある「フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団」と「ローマ国立歌劇場管弦楽団」。申し分なし。
今は亡きルチアーノ・パヴァロッティが55歳という脂の乗り切った“キング・オブ・ハイC”、“神に祝福された声”と評される美声、申し分ない声量、明晰な発音、輝かしい高音で、観客を魅了する。
自分の出身地であるイタリアのローマが会場であり、観客もイタリア人が多いこともあり、彼の魅力をたっぷりと楽しませていただいた。
日本では「ハンカチ王子」という若人がいたが、ルチアーノ・パヴァロッティも左手に白いハンカチを常に握って最初から最後まで演じていた。これは彼のおまじないなのかな?
プラシド・ドミンゴは、スタイルも顔も、声も素晴らしくいい男だ。オペラを初めて見た作品「カルメン」のドンホセ役を見てから、彼の声と演技には注目していたが、テノール歌手としては別格の人と思う。
ホセ・カレーラスは1987年白血病に侵され、奇跡的に治療が進み病み上がりの時の競演で、歌を歌っているときの表情も時々顔をしかめて苦しそうなときがあった。
カレーラス設立した白血病患者支援財団の寄金のために構想され、ドミンゴとパヴァロッティが仲間の復帰を歓迎するための競演という性格もあったそうだ。
前半は3人それぞれ交代でのソロ、後半は3人一緒で、という構成。
まずカレーラスが、歌劇アルルの女から「フェディリコの嘆き」を歌うところからスタート。
パヴァロッティは得意のプッチーニの歌劇作品を多く歌う。荒川静香のトリノオリンピックで一躍有名になった「歌劇トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」。またイタリア人ということで「帰れソレントへ」と続く。
素晴らしいのひとこと。
プラシド・ドミンゴも負けてはいない。
同じプッチーニの「歌劇トスカ」から「星は光りぬ」をかろやかに歌い上げる。
後半は3人のメドレー。
3人が楽団の前に並び、得意の歌をメドレーで歌う趣向。
ミュージカル「ウエストサイドストーリー」を英語で、「黒い瞳」をロシア語で、「ウイーンわが夢の街」をドイツ語で、「オ・ソレ・ミヨ」をイタリア語でと国際的メドレーが続く。
スタンディングオベーションでは、3人で手分けをして、イタリアを意識して「オ・ソレ・ミヨ」とパヴァロッティの十八番である「誰も寝てはならぬ」を歌い上げる。
そこでパヴァロッティは、日本の演歌のごとくこぶしを聞かした歌唱法で観客を沸かす。
それを隣で聞いていたドミンゴとカレーラスが二人でなにやら耳打ちしていたと思ったら、
パヴァロッティが歌った聴かせどころのコブシのような節回しをして、これまた大うけしていた。
指揮者のズービン・メータは、指揮台から歌手のほうに常に顔を向けて、指揮をあわせているのが印象的だった。最後はプッチーニの「誰も寝てはならぬ」だったが、メータは両手を合わせて耳に持っていって、寝るしぐさをオーケストラの連中に知らせていたのも愉快で印象的だった。
自分が知らなかった世界で、こんなに楽しいことがあるなんて、人生もまんざらではないとつくづく感じた。
先日、ぶらっと入ったイタリアレストランのBGMにあの甘ったるいパヴァロッティの声が流れていた。ふとカルメンのドンホセ役のパヴァロッティを思い出した。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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