2007年03月06日

雑念妄想の坐禅

座禅会菩提寺 西光寺の本堂で毎月一回、夜の坐禅会に参加させていただいてからもう既に6年以上になる。物音一つしない暗闇の本堂で、ただひたすら坐禅をする。暖冷房設備は、もちろん無い。


悩みを解決したい、健康になりたい・・・などという思いがある。

しかし坐禅の目的は、ただ一つ「只管打坐(しかんたざ)」

坐禅に悟りなどの目的を求めるのではなく、ひたすら坐禅することが仏法の実践であると、曹洞宗の開祖 道元(どうげん)が説く。

 

呼吸を整え、背筋を大地に対して直角にして静かに坐り、日常を忘れ、自分を見つめ直すのが禅の第一歩。

 

座禅会7右の手のひらに左の手の甲をのせ、両手の親指を軽く触れ合わせる。

あごを引き、目は半分開いた状態の半眼。口は軽く結んで、舌先を上の歯の付根に軽く当てる。

 

どっしりと、ゆったりと安定した姿勢でリラックスする。肩の力を抜く。

 

坐禅とは身心脱落なり」と道元「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という曹洞宗の基本的な書籍の中で記している。身心脱落は、肉体と精神のいっさいのとらわれから逃れて自在の境地に入ること。

 

坐禅とは心の洗濯。坐禅によってさまざまな執着を捨て去り、心の中の不要なもの、不純なものを洗い流してしまえば、裸で生まれた時の本来の自己が残る。

 

こうして不安や悩み、苦しみなどの心にこびりついた汚れ・垢を坐禅によって洗い流した時に自分の心の姿が見えてくると教える。

 

 

最初のうちは坐禅の姿勢に慣れないため、同じ姿勢を保つことが出来ず、また体が前かがみになることが多かった。また一回の坐禅を行う時間のあいだ、早く終わりの時間が来ないかとそればかりを考えている時もあった。

 

坐禅の間は、ただ坐禅をひたすら行う「只管打坐(しかんたざ)」で何も考えるなと教えられる。しかし実際は、体が坐禅の形を作っていても頭の中では、色々な雑念が浮かぶ。

雑念に対してもその雑念を追わず、ひたすら坐禅をすることが良いと説かれるが難しい。

 

座禅中の雑念のことが頭にあった自分は、ある日 多くの仏教関係の著作を著している宗教学者 山折 哲雄氏が日経新聞夕刊「こころの玉手箱」というコラムで「書斎の座布団」というエッセイを著わしているのを読んで心を強くした。(2007年1月12日)

 

山折氏も三十年ほど早朝坐禅を行っているが自分の座禅のことを

 

「まことにいい加減なものである。生かじりの野弧禅(やこぜん)、中途半端な勝手禅、とひそかにつぶやいている。それだからであろう。無念無想の気分になったことなど一度もない。いつも雑念妄想と遊びたわむれている。(中略)

 

ただ、いつまで経っても無念無想になれない自分の不甲斐なさだけは悩みの種だった。何のための三十年だったのかと長嘆息が出た。ところが数年前のことだった。天の声がきこえてきた。――無、無・・・とこだわっているからダメなのだ。雑念夢想でよいではないか。

 

雑念夢想とはいっても、それもまた何ごとかを考えていることには違いはないのではないかと思い返したのである。オレもまたデカルトのいう「われ考える、ゆえにわれあり」をやっていただけではないか、とひらめいたわけだった。二つ折りの座布団は、私にとっていつのまにか尻の下にしく心のパートナーになっていたのである。」

 

(参考:西光寺記事関連索引