近隣にある「高幡不動尊」の節分の豆まきで、福を呼ぶ縁起にあやかりたいと願って高幡不動尊へ行った。「高幡不動尊」は、真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺と呼ばれ、古来関東三不動の一つに挙げられて親しまれているところ。
近隣にある「高幡不動尊」の節分の豆まきで、福を呼ぶ縁起にあやかりたいと願って高幡不動尊へ行った。「高幡不動尊」は、真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺と呼ばれ、古来関東三不動の一つに挙げられて親しまれているところ。
小田急多摩線・京王相模原線
ちょうど今年の豆まきを行う年男・年女の善男善女たちが、仁王門をくぐって会場に向う所に出会う。
ミス日本や島崎和歌子さんも和服姿で手に豆の入った枡を持って入門。
豆まきのお立ち台のある宝輪閣の前は、すでにびっしりと豆まきを待つ人で溢れていた。
11時過ぎに待ちに待った芸能人や人気タレント達により、豆まきが始まる。
ここでの掛け声は「フクワー、ウチ。福はー、内。ふくはー、うち」の連呼で、炒った豆をそのまま投げるというもの。
昔の「福は内、鬼は外」というような掛け声は一切無かった。これも世の中の流れなのか!
投げられた豆が見えますか?
場内アナウンスで、傘を開いての豆の受け取りは禁じられていると報じていた。
広い境内には多くの出店が並び、縁日の雰囲気を盛り上げていた。また達磨も売られていて、買いそびれた人たちが求めていた。
梅の咲く頃、桜の咲く頃、アジサイの咲く頃の平日に、のんびりと高幡不動尊を訪ね、情緒に浸りたいとおもう。名物の高幡不動の饅頭も食べたいものだ。
高幡不動尊の縁起について、憶測や推測といった誤った情報を避けるため、公式ホームページからそのまま転載いたします。
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。
その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。
足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。
当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。
その後、歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向ったが殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊・奥殿等の工事が相継ぎ往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。
総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は此の度千年ぶりの修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。
更に、節分についても下記のように解説しています。
節分とは季節の変わり目のことで、立春・立夏・立秋・立冬の前日をいいます。中でも旧暦では立春から新しい年が始まるので、立春の節分は年の最後ということになり、新年を迎える意味で特に重視されました。ですから今日、一般に節分というと立春の節分を指すようになりました。
節分には日暮れ前に大豆を煎り、夜になって「鬼は外、福は内」と唱えながら豆を投げ戸をしめます。この習慣は平安時代に宮廷で行われていた大晦日夜の行事、疫鬼を追い払う「追儺(ついな)」と結びついているともいわれます。いずれにせよ、新年を迎えるに際し、悪鬼を払い幸福を願うことが目的です。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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