2006年10月24日

リビヤの思い出(1)

砂漠リビヤは、地中海に面した北アフリカの国。隣はエジプトであり、チュニジア、アルジェリア、チャド、ニジェールに囲まれた砂漠の国。

リビアの最高指導者は、ムアマル・アル・カダフィ大佐。1942年9月にリビアの遊牧民カダファ族の1人として生まれた。殆ど歳が違わないので親しみを感じる男の一人だが、残念ながら会ったことは無い。彼のお兄さんには会ったことがあるが、別の機会に書こう。


今から30年前のリビヤは、英米主導による国際社会からの隔離政策によって、国のイメージばかりではなく、実質経済的にも大きなダメージを受け続けていた。その最大の原因は、1969年に無血クーデターでカダフィ大尉(当時)が政権についたあとで、PLO、IRAへの支持を鮮明にしたことにあったためと考えられる。

 

リビアへあるシステムの売込みを行うべく、何回と無くリビアへ出張。リビアは観光という産業が無かったため、入国は一般の人は先ずできない。なぜならリビア政府が発行した招聘状が必要だからだ。閉鎖的であったリビア政府が発行する本国の入国招聘状は、特別なルートが無い限り先ず手に入らない。

 

ローマからリビアエアラインに乗り換えて、まず驚いたのは機内で配られた入国カードがすべてアラビア語で書かれていたことだ。まるっきり分からずスチュワーデスを呼び、自分のパスポートを見せて、英語のやり取りをしながら彼女に記入してもらった。

 

飛行機が地中海を越えてリビアの副都市ベンガジに到着すると、飛行機の下にジープが横付けされ、わたしはリビアの入国審査を受けることなく、そのジープでエージェントの事務所へ向かった。このような待遇は、生れて初めてであり、怖さを感じた。

 

簡単な打合せの後、疲れていたので日本から予約してあったベンガジ湾に望む最高級ホテルに送ってもらい、一人でチェックインをしようとした。

パスポートを見せ、「部屋があるね。」と確認すると、「ご免なさい!あなたの名前の部屋は予約されていない。」という返事。北アフリカのリビアまで来て部屋が無かったら困るので、機転を利かして 持ってたボールペンを出してフロントマンにプレゼントを申し出ると彼は手にとってジッと見た後、「これはパーカーではないのでいらない。」とつき返された。

 

あいにくパーカーやシェ―ファーの文具は無かったので、土産に用意してきた8桁の電卓を取り出すと、フロントマンは直ぐに手にとって、ニコッとして「ジェントルマン、あなたの部屋は最上階にとってある。」と のたまった。

 

部屋に落ち着き、腹が減ったのでルームサービスの紅茶、サンドイッチ、サラダを注文。

部屋に届いたサラダを見てびっくり。30cmもある大きな皿に、薄くスライスされたキュウリがふぐ刺しのように並べられているだけだった。アー、自分はいま砂漠の国に来ているのだな、生野菜は貴重品なんだと合点してありがたく頂いた。

 

アラブ流のビジネスであるため、すべてがのんびりしていて、アポイントメントなどまったく当てにできない。決められた日に行けば相手はおらず、理由を尋ねると「アラーの神の思し召しで、今日は不在だ。明日にしよう。」という具合。明日ということは、未定という意味。文句を言えば、「気にしない、気にしない。」という。アラブ風のビジネスで心得なければならないのは、「急がない、慌てない、怒らない」ということだろう。彼らの口から出る言葉は、「アラーの神の思し召しである。」「それは今日でなく、明日にしよう。(要は日程を決めない。)」「何が起きても気にしない、気にしない」が多い。

 

一回の出張で一つの商談を行おうとすると、当時は2−3週間もの間 現地で、相手の機が熟するのをじっと待たなければならず、「日本からは一体どうなっているのだ、早く帰って来い。」という内容のテレックス(当時電話はまずつながらず、ファックスも無い時代)が入るが、具体的な商談が無いので帰れずホテルでジッと待つ日が続く。

 

ある日、ホテルのレストランで朝食を済ませ、フロントの前を通るとフロントの男から「今日の午後から3日間、このホテルを出て欲しい。」と言う。理由を尋ねると、カダフィ大佐が親しくしていた シリアのサダト大統領が 急遽このホテルに泊まることになったため警備上の都合だという。代わりのホテルの紹介も無く、暇な毎日をぶらぶらして街を歩いていたので、どこにホテルがあるかは分かっていたので、荷物をまとめて小さなホテルに移動したこともあった。***続く***