明治20年以来、黒川分教場は汁守神社の裏手にあった。大合併の後も黒川の4年以下の児童が授業を行っていた。
大正12年の関東大震災で汁守神社の裏手にあった黒川分教場も大被害を受け、新築移転をせざるを得ない状況になった。
明治20年以来、黒川分教場は汁守神社の裏手にあった。大合併の後も黒川の4年以下の児童が授業を行っていた。
大正12年の関東大震災で汁守神社の裏手にあった黒川分教場も大被害を受け、新築移転をせざるを得ない状況になった。
新敷地として、現在の「
分教場の場所は黒川と栗木との境の山の上で、黒川と栗木を結ぶ道は、大正11年にようやく切り通しになったばかりであった。
村の人たちが協力して山の上を平坦にして、大正15年に総建坪九十六坪三合七勺五才で校舎一棟二教室、便所、教員室、教員住宅を新築した。教室は二教室であったため、1年と2年、3年と4年が一緒に学ぶ複式学級で授業を受けた。
そして、大正15年の通学区域の変更により、栗木の児童は黒川分教場に通うことになる。
そのころのこども達の服装は、全員が着物で、足はわらぞうりかゴム靴だった。冬は教室にある大きな木の火鉢で暖を取った。弁当は、教室の隅においてあった保温箱で炭火を使い温めてもらった。遊びは山で「戦争ごっこ」をしていた。
昭和14年(1939年)柿生村は
昭和16年には、小学校が国民学校となる。国民学校には初等科6年、高等化2年が設けられた。
この国民学校令により
(参考:「柿生の教育のあゆみ」 柿生小学校本紀、「ふるさとへ」栗木台小学校)
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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