2006年08月09日

明治時代の黒川の学校に関して

アニメミッキー当ブログの読者の方から、明治時代の学校に関して、興味のあるご指摘・ご教示がありました。それは現在の多摩市連光寺の高西寺にあった向岡学校が、神奈川県管下武蔵国南多摩郡連光寺村という記録があることに、不思議さを感じていました。それに関して、当ブログの7月27日号で、疑問を呈した所、早速黒川にお住まいのHさんから下記のようなご指摘・ご教示がありましたので、ご紹介いたします。


 さて、7月27日の「明治 黒川村の学校(2) 」についてですが、この中にある「多摩市の連光寺まで神奈川県と呼んでいたのでしょうか?」という分ですが、記述に出てくる明治8年、19年という時期から判断するに現多摩市は神奈川県で間違いないと思われます。

3多摩の東京府移管は26年だったはずですので地勢的な問題はともかく、学校の区域として連光寺側に組み込まることはありえると思われます。

このあたり私もきちんと調べたわけではないので確信は持てないのですが、

 

昔調べた記憶によれば、

明治元年の神奈川制定当時、相模川以東、多摩川以西のエリアは神奈川県。(相模川以西は足柄県。厚木や小田原は神奈川ではなかった。)

その後数年かけて(明治5年まであたり?)武蔵野の多摩エリアが神奈川に編入。(豊玉郡の一部も神奈川。多摩川が境界ではなく、世田谷の砧あたりも神奈川。現在の中野の一部も神奈川)

明治9年、足柄県廃止。伊豆を静岡県に、小田原より以東を神奈川に。

明治26年、多摩が東京に編入。

と記憶しています

 

大筋ここまでは合っていると思うのですが、上記にあるように相当混乱していたようで実際武蔵野の神奈川編入に関しては、個別の町村単位での編入により数年掛かったと記憶しております。

 

このあたりは小島資料館に

「江戸時代末期の東京近郊遊覧地図」(正式名称失念・・)

「足柄県が存在した時期の神奈川地図」(こちらも正式名称はわかりません)

があったと記憶しております。

町田市立自由民権資料館にはこのあたりの資料が沢山あったはずです。まとまったものとしては多分ここが一番充実していると思われます。

御存知のように三多摩の東京移管(実際には神奈川からの追放ですね)は自由民権運動と密接な関係があるので、資料館の学芸員さんが熟知していると思われます。

 

話しは逸れますが、

 

移管に関しては現在の市町村合併問題と同様に住民と行政の思惑が見え隠れしていて非常に興味をそそる話しが沢山あります。

近いところでは、岡上が飛び地として川崎に属している件や、地理的・地域の結びつきからは八王子に属している町田の相原以北の地域があえて町田への編入を望んだ件、埼玉の一部も多摩郡であったが、東京に移管されるのを拒み埼玉に組み込まれた件などがあります。

 

我が黒川は一度も東京に組み込まれたことはありませんが、歩いて越境できる多摩市稲城市町田市が東京府に移管され、周りを全て東京府に囲まれた形で神奈川に残された最深の地「黒川」に当時どのような状況があったのか、非常に興味をそそられます。

 

長くなりましたが、連光寺の神奈川県については上記のとおりと推測されます。

 明治10年卒業証書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(この明治10年発行の証書は「柿生の教育のあゆみ」 柿生小学校本紀 より転載。)

 

以前、町田が神奈川から東京に移管された出来事を知った時に、確か武相の郡をいくつかの区(行政区)に分けたという話しがあったように記憶してましたのでWEBで調べたところ、

http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/tennji/jyousetsu-13.htm

にその記述がありました。

---------------------------------------------------

380 石阪昌孝あての区長任命書 1873(明治6)5月 船橋市・渡瀬信正家 1873年(明治6)5月、神奈川県は「区画改正」を実施し、武相7郡を20に区分しました。第八区は56か村(のち55か村)を包括し、現在の町田・稲城・多摩、そして八王子・日野・川崎の一部を含む、広大な行政区域でした。区長に石阪鎮四郎(昌)、副区長に橋本政直が任命されました。県庁からの布令・通達を布達すること、訴訟の仲裁や上訴の申請など区内の事務一切をとりまとめていきました。

---------------------------------------------------

とあります。

ここで注目点は、「川崎の一部を含む」という点です。

 

町田・稲城・多摩、そして八王子・日野・川崎の一部という表現から当てはまるのは多摩・稲城に接している川崎と考えられます。これは黒川を意味しているのでしょうか?

 

現在の川崎市が例えば七区とか別の区であり、その区の北限がもし現在の白鳥あたりであるならば、必然的に黒川の学校区も連光寺に含まれてしまうのかなと勝手に想像しています。

 

もしこの川崎の一部というのが黒川であったならば、黒川の現代史において非常に重要であるように思われます。考えようによっては、この区単位で東京への移管が行われていたならば、現在黒川は東京都である可能性があるからです。

(上記表記にあり、56ケ村、のちに55か村というのも気になります。合併があったのか、脱退したのか・・・脱退したのは唯一現神奈川県の黒川なのか?)

 

そもそもこの区の分け方が実際の地勢を無視した行政の区割りだったのか、それとも住民の意向を反映したものだったのか、

 

なぜ東京府移管時に八区川崎の一部は神奈川に残ったのか(他は全て東京へ移管)。

その時、黒川にどのような運動(少なくとも賛成した人、反対した人がいたと思われます)があったのか。

黒川史において、重要なターニングポイントだったような気がします。

もう少し、勝手に調べてみますが、一体どこから調べてよいのやら見当もつきません。

 

謎のポイントは、住所表記としての黒川は都筑郡、他地区は南多摩郡であり、上記第八区に黒川は含まれたのか。含まれないのであればなぜ学区のみ黒川は南多摩郡に組み込まれたのかという点です

 

行政区とは別に戸籍区という分けもあったようで、本当に明治初期から数年というのは混乱していたようですね。

 

黒川在住のH様のご指摘とご高察で更に興味のある事柄が、明確になってきました。ご努力に深謝申し上げるとともに更なる研究成果を楽しみにしております。

ありがとうございました。

 

今から130年以上も前のことがわかる黒川の長老が存命であれば、駆けつけて当時の黒川の賢人たちの動きを詳細に確認したいと思いますがそれもならず。

昭和天皇陛下のお言葉を記録したメモの存在が世を沸かしていますが、当時の黒川のことを記した個人の日記でも出てくればありがたいと考えています。

 

おられます。現在92歳のある黒川の長老は、戦争中を含めて黒川のことと個人のことを日記に休まず記録しています。ご存命ですがこれも今後の貴重な資料になるでしょう。しかし130年前の事柄は、わかりません。