2006年07月29日

黒川の教育の歴史(3)

*** 汁守神社裏の学校 *** 

明治19年の小学校令により、親に子どもを小学校に通わせる義務を負わせました。そしてこの年から尋常小学校4年、高等小学校4年の修業年限を定めました。義務教育となると学校に通う子どもが多くなり、台の学校では狭くなりました。


神社裏学校の碑j150「梅澤駒之助」氏が二百十坪の敷地を寄付されて、汁守神社の裏に学校が新築されて明治20年4月15日に開校しました。

神奈川県都築郡黒川村 村立黒川小学校」と呼ばれ、この地域ではじめて「村立」を名乗った学校でした。(左の写真は、汁守神社裏手にあった黒川小学校の碑で、現在は「黒川青少年野外活動センター」の玄関前に移設されています。)

 

学校は、当初から尋常小学科が置かれていたので、片平学校、上麻生学校、下麻生学校と対等でした。

 

教室は1教室で1年生から4年生までが一緒に授業を受けていました。教室の入口の近くに炭火の囲炉裏(いろり)が二つあり、冬になると餅を焼いて弁当代わりに食べたそうです。

 

明治22年には近隣十カ村を「柿生村」と呼ぶようになり、学校の名前も「神奈川県都築郡柿生村区立黒川学校」に改めました。区立というのは、「通学区」を意味しています。

 

明治25年3月19日、学校の名称の前に「尋常」がつき、初めて小学校と呼ぶようになりました。すなわち「神奈川県都築郡柿生村区立尋常黒川小学校」です。高等科に行く子どもの数は少なかったのですが、黒川の子ども達は鶴川の高等小学校に通っていました。

 

神社裏の学校見取図300明治33年〔1900年〕には、尋常小学校の修業年限が4年に統一され授業料も無料となり、義務教育が確立しました。明治40年には2年延長されて修業年限が6年になりました。訓導兼学校長は、吉澤八太郎氏。

 

尋常黒川小学校では、5・6年生を収容できないため、今の柿生中学校の地にあった「尋常高等義胤〔よしたね〕小学校に通わせることにしました。

 

 

大正2年(1913年)には、増えていく教育費用の節減のため「尋常黒川小学校」は廃校となり、「尋常高等義胤小学校の分教場」になりました。そこには黒川の4年生以下の子供たちが通い、5・6年生は本校の尋常高等義胤小学校まで通いました。

 

(出典:「柿生の教育のあゆみ 柿生小学校本紀」、「ふるさとへ 栗木台小学校」)