2006年07月27日

明治 黒川村の学校(2)

*** 台の学校 ***

市川宅の「黒川村公立黒川学校」は、明治14年になると黒川村の台(現在の黒川287番地)にあった立川宅へ移ったと考えることができます。


台の学校台の学校では、「小学初等(3年間)」はありましたが、「小学中等(3年間)」はなく、当時の児童は「神奈川県管下武蔵国南多摩郡連光寺村 村立小学向岡学校」の「小学中等」へ入学したという記録があります。

 

 

 

 

向岡学校は明治8年8月、高西寺(現在は多摩市連光寺二丁目二十八番地)において開業した「第一大學区、第八中学区、第三十二番小学、向岡学校」です。「村立」ということから、南多摩郡連光寺村で取り仕切っていた学校でした。

黒川学校の生徒は、この頃から、山を越えて片平学校に通学するということはなかったのです。

 

明治19年の小学校令により、親に子どもを小学校に通わせる義務を負わせました。そしてこの年から「尋常小学校4年」、「高等小学校4年」の修業年限を定めました。

 

義務教育となったため学校に通う子どもが多くなり、台の学校では狭くなりました。

 

(参考資料:「柿生の教育のあゆみ 柿生小学校本紀」、「ふるさとへ 栗木台小学校」)

今の多摩市連光寺にあった向岡小学校は、明らかに武蔵国ですが、その頭に神奈川県管下とついているのは不思議な感じがします。多摩市の連光寺まで神奈川県と呼んでいたのでしょうか?

 

また黒川の中心部から、向岡学校のあった場所まで地図で調べると直線で3km、明治の初めのことですから道路整備もなされていない農道中心とすれば、ゆうに4kmを越えます。この距離を10歳前後の黒川の向学心に燃える子ども達が通っていたことは驚きです。しかもはるひ野の「谷ツ公園」の中を通る赤土丸出しの鬱蒼とした昼尚暗い道を通ったとすれば、驚きです。大人も昼間の時間が短い冬などは早く日が暮れて暗くなり、人っ子一人いない山道ですから。