黒川から町田方向に向かい、真光寺を過ぎて井の花の三叉路を右に小野路町方向におよそ2.5km行く。そして小野神社の交差点を通過して直ぐ右側にある塀で囲まれたお屋敷が、小島資料館だ。
小島家は代々小野路村の名主を務め、江戸時代中期から後期にかけて小野路村の豪農であった。小島家20代の小島鹿之助(為政)氏(こじましかのすけ、文政13年2月1日(1830年2月23日)生まれ−明治33年(1900年)3月9日没。享年71。)は、新選組副長土方歳三の縁戚。
嘉永元年(1848年)、天然理心流宗家3代目近藤周助の門人となり、後の新選組局長 近藤勇(天然理心流宗家4代目)や同門で日野宿名主の佐藤彦五郎と義兄弟の契りを交わす。
幕末には近藤周助、近藤勇、土方歳三、沖田総司らが足繁く小島家に来て、この小島家の庭で、剣術の指南をしていたという。今の小島家の庭は、芝生が植えられ植木があり、池もあって当時の面影は無いが、その場所がまさに近藤勇らが剣道の稽古をしていた場所であると思うと感慨深い。
小島資料館になっている建物も、母屋は天保13年(1842年)今から164年前に名主の邸宅として造られて、昭和40年に一部改築されたが、当時の欅の大黒柱や間取りはそのままであるとのこと。
母屋とつながっている史料館の中には、新撰組関係者の肉筆の文書が見られるほか、たくさんの資料が保管されている。当時の近藤勇が使っていた背中に妻のつねが刺繍した髑髏(どくろ)マーク入りの稽古着、小野路村で使われた本物の「踏み絵」や、沖田総司の年賀状など興味深いものが多い。
また玄関前には上野寛永寺にあった天明6年(1786年)の浚明院殿(徳川家治)の巨大な灯篭が置かれている。この灯篭の正面の石が欠けていたので何故かと思っていたが、これは上野彰義隊が官軍と戦ったときの弾痕であるということを後で知った。
小島史料館 館長 小島政孝氏
〒195−0064
電話042−736−8777(留守電・案内専用)
開館日 毎月第一・第三日曜日、午後1時から5時まで
冬季休館 1月1日―2月末日
入館料 中学生以上600円、小学生300円
駐車場 乗用車5台まで
新撰組資料 100点
新撰組関係書籍・雑誌 700点
歴史資料(道具類) 169点
近世・近代地方文書 4488点
和漢籍 2321点
東京都指定有形文化財(古文書) 平成五年指定
東京都指定有形文化財(歴史資料)平成十二年指定
(記事資料:小島史料館発行 入館パンフレット 他)
(参考)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近藤勇
近藤 勇(こんどういさみ、天保5年10月9日(1834年11月9日)生まれ - 慶応4年4月25日(1868年5月17日)歿)は、新選組局長。晩年は幕臣。
勇は通称、諱(実名)は昌宜(まさよし)。近藤家は名字を近藤、本姓を藤原と自称したことから、近藤勇の朝臣としての正式な名前は藤原昌宜(ふじわら・の・まさよし)。
農業宮川久次郎の三男として生まれ、幼名を宮川勝五郎という。宮川夫妻には勝五郎の他に、長女・リエ(近藤の生まれる2年前に死去)、長男・音五郎、次男・粂蔵(粂次郎)がいた。 出身地武蔵国多摩郡上石
嘉永元年(1849年)11月11日、近藤は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の実家である島崎家に養子に入り、島崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、島崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。
清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京都に残留する。京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。
長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となった。その後、働き振りが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。また、近藤派は芹沢派を排除し、局長・近藤勇が主導する新体制を構築した。
下総国流山(現在の
土方歳三
土方 歳三(ひじかたとしぞう、天保6年5月5日(1835年5月31日)生まれ - 明治2年5月11日(1869年6月20日)歿)は、新選組副長。
幕末期の幕臣。新選組鬼の副長として皆に恐れられた。
武蔵国
日野の佐藤道場に出稽古に来ていた天然理心流4代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこの頃出会ったと推測され、安政6年(1859)3月29日、天然理心流に正式入門した。
歳三の姉のぶは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われている。彦五郎は大火に乗じて命を狙われたことがあり、それを契機に井上源三郎の兄、井上松五郎の勧めで天然理心流に入門、自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は近藤と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した人でもある。歳三もこの道場で腕を磨いたと伝えられている。
近藤道場(試衛館)の仲間とともに、歳三は文久3年2月、幕府の浪士組に応募して京都へ出立した。
明治2年(1869)5月11日(旧暦)、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、新選組隊士島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻めくる新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。
歳三の遺体は、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われる。その場所は特定されていない。享年35歳。
http://www.city.hino.tokyo.jp/shinsenr/
近藤勇に、ある男が「新撰組」のメンバーに入れて欲しい」と懇願したところ、近藤勇は「お前は総領(長男)だから、危険のともなう自分たちの新撰組に迎えるわけにはいかない。」と回答したことが、資料の中にあった。近藤勇の人間性が分かったような気がした。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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