この近辺では、梨は古くから多摩川沿いに多くの農園があり、そこで栽培されていました。そこの土壌は河川と同じように砂利を多く含むもの。黒川は多摩川から10km以上も離れた丘陵部で、梨の栽培には土壌が合わないから栽培は難しいと考えられていました。(写真:清楚な梨の花)
この近辺では、梨は古くから多摩川沿いに多くの農園があり、そこで栽培されていました。そこの土壌は河川と同じように砂利を多く含むもの。黒川は多摩川から10km以上も離れた丘陵部で、梨の栽培には土壌が合わないから栽培は難しいと考えられていました。(写真:清楚な梨の花)
今からおよそ53年前の昭和28年に、黒川に生まれ住んでいた農家の川端 俊さんが、黒川で梨栽培を初めて取り組みました。
川端さんは当時、登戸にあった農家の長男を対象とする「静修校」で、いろいろなことを学んでいた時に、これからの農業経営には収入のよい梨栽培がよいと気づきました。そして当時の常識を破って黒川での梨栽培を始めました。専門家の農業指導員も「黒川では梨の栽培は難しい」と勧めなかったそうです。
パイオニアの川端さんは、初めての梨栽培でいろいろな苦労があったそうです。周囲には梨栽培の経験者がいないので、トラブルがあっても相談する人もいないし、梨の生育ノウハウも無かったので、夢中でしかも手探りで取り組んだそうです。
品種は当時の「長十郎梨」。
土壌が合わないから難しいとされていた梨だったが、黒川の赤土を主体にした土とよく合い梨の根が地中深く伸びるためしっかりした梨の木に育ちました。そして梨の味も多摩川梨の味に劣らない美味しいものが収穫できるようになりました。この結果を見て、農業指導員も考え方を改めたそうです。
その後、黒川でも川端さんの梨栽培の成功を見て、多くの農家が梨栽培に取り組み、最盛期にはおよそ40軒の農家が競って梨栽培を行い、秋には「梨もぎツアー」が黒川に来たほどでした。小田急の沿線ガイドにも、多摩川梨のもぎ取りに加えて、黒川駅下車「黒川で梨もぎ取り」と宣伝をしていました。今もその伝統が生きていて 味で名前の知られた梨農家には、シーズンになると宅急便で梨を求める人やもぎ取りを楽しみにこられる方が多くいます。ある農家ではお得意さんに届ける予約がいっぱいで、一見のお客様には断っているところもあるほどです。
多摩川梨は、多摩川沿いの河川敷風の土地が栽培には適しているという常識を破って、多摩丘陵の黒川で梨栽培が成功したというので、『山に登る多摩川梨』と言われています。これは昭和50年9月のNHKテレビで、黒川の梨が紹介されてそのキャッチフレーズが「山に登る多摩川梨」だったのです。
今でも秋になると、およそ10軒の農家が梨を栽培しており「黒川農産物直売所」で、黒川の梨を求めることができます。
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「多摩川梨もぎとり連合会 35年の歩み」
1.黒川の梨もぎとり (川端俊氏の談)
黒川地区に梨が導入されたのは昭和28年秋で、品種は八雲、雲井、旭、長十郎であった。市場への初出荷は32年である。
沿道直売は、38年に片平の対間氏の前で試みたのがはじまりで、翌39年には国道16号線と246号線の沿道で販売した。43年には多摩川梨もぎとり連合会に合流、40年代後半より消費者の要望に応えるべく、幸水、豊水への高接更新(たかつぎこうしん)を実施した。
49年には小田急多摩線が開通、黒川駅が誕生した。新線の開通にともない、もぎとりの方法について登戸の伊藤隆彬、小林美登氏から説明を受け、小田急本社に協力を依頼した。また、普及員より「梨もぎとりへの対応について」講習を受け、9月には小田急とタイアップしてもぎとりの広告、看板等を立て本格的な観光販売がスタートした。
その年の10月、京王相模原線が開通し、地元に若葉台駅ができた。
50年には多摩川なしもぎとり連合会から加入の要請があり、入会。同年8月には、小田急につづき京王電鉄とタイアップし、もぎとりを開始。9月にはNHKテレビ「山に登る多摩川梨」と題して放映された。
テレビ宣伝効果があったのか、翌年には電車利用のもぎとり来園者が急増した。
53年には小田急永山駅に、54年には京王多摩センター駅、調布駅、王禅寺三井団地で直売をはじめた。この頃から、もぎとりの地方発送も急増し、観光販売体制が整ったと思っている。
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2.多摩川梨について 長十郎発見
川崎で梨栽培がはじまったのはたいへん古く、1650年代(江戸時代の初期)すでに川崎大師河原で栽培された記録があるが、果樹として栽培が盛んになったのは寛政時代(1750年代)といわれている。
いずれの地方より移入されたのかはあきらかではないが、下総方面より伝わったものと推測される。その後、安政年間(1855年頃)の津波によって栽培が衰えたが再び増加、明治7−8年頃から、とくに大師地区(現在の
明治26年9月、大師河原(現川崎
しかし、この長十郎は当時あまり注目されなかったが、明治30年、黒星病が大発生し、当時のほとんどの品種が壊滅状態であったが、長十郎は被害が少なく、以後「病気に強い品種」として栽培者が急増した。
大正の終わり頃の川崎の梨栽培面積は200ヘクタールを越え、関東地方の一大生産地であった。しかし、川崎は昭和のはじめにかけ工業都市として飛躍的な発展をとげ、これにともなって昭和8−9年頃は大師から梨園が姿を消した。
川崎南部地区で梨園が減っていく一方で、梨栽培は多摩川を北上し高津、稲田、生田、菅、さらには稲城から国立、昭島まで盛んになっていった。
昭和2年、はじめて多摩川沿いの組合が一致団結し、生産・販売を行うことになった。この時点で「多摩川梨」の名称に統一された。こうして「多摩川梨」は東京近郊の市場で有名になった。
昭和2年10月には、多摩川梨が天皇・皇后両陛下に献上され、生産者の代表2名が皇居坂下門より入城し「早生赤」160個を献上した。さらに昭和8年と9年の両年、朝香宮に「二十世紀」一箱を献上するなど、多摩川梨の全盛時代であった。
(後略)
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はるひ野にお住まいのかたで、今年の春 見事な梨の花を御覧になった方が多いでしょう。とても清楚な花です。
わたしも若い頃は、黒川で幼稚園か保育園を経営したいと真剣に考えた時期があり、そのときには開設する園の名称を黒川梨の花にちなんで、梨花(りか)幼稚園、梨花(りか)保育園にしようと考えていたほどです。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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