江戸時代の末期から黒川では、市川角左衛門さんという方が自宅で私塾を開き子ども達に読み書きを教えていました。市川角左衛門さんは明治25年〔1892年〕78歳で亡くなりました。当時の黒川の村民と市川塾に通ってきていた近隣の村の教え子たちが市川翁の業績をたたえて石碑を建てました。
江戸時代の末期から黒川では、市川角左衛門さんという方が自宅で私塾を開き子ども達に読み書きを教えていました。市川角左衛門さんは明治25年〔1892年〕78歳で亡くなりました。当時の黒川の村民と市川塾に通ってきていた近隣の村の教え子たちが市川翁の業績をたたえて石碑を建てました。
この石碑の碑文には「教導前後凡三十年闔村至無不解文字者明治二十五年九月三十日病歿享年七十有八・・・」とあり『30年にわたり
日本教育史資料には、明治五年にこの市川塾に通っていたのは、男子30名、女子10名に読書、習字を教えていたとあります。
この学制により市川塾は「黒川学舎」という名の学校になり、市川角左衛門さんはそのまま黒川学舎の先生となって子ども達の教育にあたりました。
明治八年には黒川学舎という名前が「小学黒川学校」となりました。正式には、「第一大学区第九中学区第八十番小学黒川学校」と位置づけられていました。一方、片平学校も、「第一大学区第九中学区第80番小学片平学校」であり、同じ番号ですので同じ学区でした。これから黒川学校は、片平学校の支校〔分校〕として存在していたといわれています。
当時の一年は二学期制で、一学期は6ヶ月で子ども達は学期の終わりの試験を受けて合格しなければ次の級に進むことができませんでした。小学黒川分校には、6歳から9歳までの子供たちが4年間通いました。10歳より上の子ども達は、片平学校に通っていました。
明治十二年に教育令が公布されて、「
(参考資料:「柿生の教育のあゆみ 柿生小学校本紀」、「ふるさとへ 栗木台小学校」「くろかわ」はるひ野開発と地域の記録編集委員会)
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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