恥ずかしながらわたしは5年前までは、まったく知りませんでした。
日本航空のジャンボ機の機長をしていて那須に住んでいる大学時代の友人から5年前に電話がかかってきた。「お前の家の近くに、白州次郎(しらすじろう)の住んでいた家が『武相荘(ぶあいそう)』という名前の記念館としてオープンしてるのだが、車ではどのようにいけばよいか?」という内容だった。「そこは鶴川に近い場所だから、黒川に住んでいるお前は知っているだろう」というのだが、教養のない私は聞いたこともないので答えられず、知らないと答えたものです。
平成18年4月5日のNHK総合テレビ「その時歴史は動いた」で『マッカーサーを叱った男 〜白洲次郎・戦後復興への挑戦〜』という番組で取り上げられていたのが、5年前の友人が聞いてきた武相荘の主人 白州次郎氏でした。
白州次郎:1902年(明治35年)2月17日 兵庫県芦屋で誕生。17歳でイギリスケンブリッジ大学に留学。1929年(昭和4年)27歳で樺山正子と結婚。1943年(昭和18年)鶴川村に転居。そこの住まいが現在『武相荘』として開放。1946年(昭和21年)マッカーサー草案の日本国憲法の創設に深くかかわる。1951年(昭和26年)東北電力会長に就任。1952・1953年 吉田首相の特使として欧米を視察。1985年(昭和60年)11月28日死去。83才。遺言書は「葬式無用、戒名不用」のみ。
白州正子:1910年(明治43年)東京生まれ、1998年(平成10年)死去。「白州正子全集全14巻・別館1・新潮社」
白州次郎氏と奥様の白州正子さんは、20世紀を駆け抜けた日本で一番格好の良いモダンなご夫婦では無かったのではないでしょうか。ただ外国の形だけをまねたモダンではなく、日本人としてのメンタリティを明確に持った上でのモダンであったのだと思います。
図書館や本屋さんに行けば、お二人の書籍は直ぐ見つかりますがわれわれ凡人とはスケールが違う生き方を20世紀の戦前戦後を通してこられた方です。
武相荘に入ると懐かしい農家の建物です。藁葺き屋根で黒光りする大黒柱、磨き上げられた床板など、自分が住んでいた昔の農家と間取りがほとんど同じだったのには驚きました。鶴川の南斜面の小高い丘の斜面に建てられていて、庭には高さ10m以上もの禅寺丸柿の木が、緑色の葉を付けているこの付近の典型的な農家風情。
ところで『武相荘』とは、「武蔵の国」と相模の国」の境に位置することを”無愛想“にかけて、『武相荘』と名付けたという説明が、館内にありました。
また正子の祖父が大正5年に書かれた額には、「何事 非 娯」というのがあり、これは「どんな事でも、楽しみにならないことはない。」という意味のものがありました。
そこの主人白州次郎は中学生の時に父からアメリカ製のオープンカーを買ってもらったというような家柄。武相荘に展示してある次郎の写真を見ると、真のダンディズムというのはこのことかと分かるような気がする。着ている物、持っている物、飲んでいたお酒、懐中時計等が、ほとんど有名な舶来品で自分との違いに驚く有様。
しかも武相荘には、かの福沢諭吉の大きな額がさりげなく飾ってあったり、吉田茂からの贈り物があったりして、白洲氏のスケールの大きさが分かります。
旧白州邸 武相荘
〒195−0053
電話042−735−5732
開館時間 10:00−17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週月・火曜日(祝日・振替休日は開館)
入館料 1000円(消費税込み)
(小学生以下の入館は、不可能)
小糠雨(こぬかあめ)の日に、口数の少ない素敵な方とふたりで 団体客のいない時間帯を見計らい ゆっくりと武相荘を訪れてみたいものです。そういう雰囲気にピッタリなのが、この武相荘です。
武相荘の中には洒落た小さな「お茶処」があり、お抹茶やコーヒーのセットが800円で楽しめます。ここに腰を降ろしてしばしの雰囲気を味わうのも良いものです。
また数日前からお弁当を予約しておき、食べることも出来ます。青山「レ・クリスタリーヌ」から取り寄せる、<オリジナル・フレンチ弁当>が、完全予約制 3150円で楽しめます。食べては無いのでコメントできませんが、写真を見る限り豪華なお弁当です。
予約は、上記の武相荘へ。当日申込みや前日では、不可能とのこと。
小糠雨が降ることと予約フレンチ弁当を数日前から予約しておき、シックな武相荘で素敵な方と食事をするのも、冥土(めいど)の土産には悪いことではないでしょう。
*********************************
お時間のある方は、NHKの「その時 歴史は動いた」のHPから4月に放送した番組紹介の記事を下記に一部転載します。
(時間がたつとNHKで消去される恐れがあるため)
第248回 マッカーサーを叱った男 〜白洲次郎・戦後復興への挑戦〜
放送日
(本放送) 平成18年4月5日(水)
22:00〜22:43 総合 全国
(出演者)
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト
北 康利(きた・やすとし)さん(作家)
VTR出演:宮沢 喜一(みやざわ・きいち)さん(元内閣総理大臣)
(番組概要)
その時:昭和24(1949)年5月25日
出来事:白洲次郎が通商産業省を創設する
日本で最初にジーンズをはいたといわれる抜群のファッションセンスを備えた異色の男、白洲次郎。白洲は、戦後GHQ占領下にあって日本の自立の道を探り、ひとり悪戦苦闘を続けた。英国留学を経て実業家として活躍した白洲は、戦争継続に反対していた外交官・吉田茂の知遇を得る。そして戦後、吉田が外相ついで首相に就任すると、並はずれた交渉力を吉田から見込まれてGHQとの折衝を任された。白洲は、日本の国情を無視して政治介入するGHQと、それを従順に受け入れる政府に反発。日本の尊厳を守った「自立」に自らを捧げる決意を固めた。しかし、憲法の改正では、GHQが提示した憲法案を飲まされることになる。徹夜の翻訳作業にも立ち会った白洲は、政治とは別の道で日本の自立を模索しはじめた。それは、経済の自立だった。
当時、日本はGHQに指導された統制経済下にあり、貿易も国家管理におかれていた。日本の復興には、自由経済に立脚した輸出振興が必要であると考えた白洲は、昭和24年5月、貿易立国を牽引した通商産業省を立ち上げる。宮澤喜一元首相をはじめ占領期の白洲を知る人々の証言をもとに、貿易立国という戦後日本の自立の道筋をつけた白洲次郎の闘いを描く。
(憲法改正過程について)
今回は、さまざまな要素を含む憲法改正の過程を、おもに「白洲手記」と白洲が後年に残した回想(「占領秘話を知り過ぎた男の回想」など)に基づきながら描いた。つまり主人公が残した史料を軸に、適宜、専門文献で補うかたちで番組を構成している。
日本国憲法制定はGHQ主導の所産であるというのが白洲のスタンスである。しかし、番組の中でも強調したが、白洲次郎はなによりもまず平和を希求した人物であり、また、新憲法の「プリンシプル」(戦争放棄など)は大変立派であると述べている。
あくまで制定過程で日本人が主導権が握れなかったことを悔やんでいた。
(通産省創設と吉田茂について)
たしかに白洲の背後には常に吉田茂がいた。貿易庁、商工省の解体と通産省の創設は、その意味では「吉田−白洲」ラインによる成果というのが正しい(通産省の正史「通商産業政策史」)。ただし実働部隊として動いたのは、白洲とその腹心である永山時雄であったことは、永山氏自身の証言(一般に入手できる出版物はない)から確証されている。今回の通産省創設は、この永山証言を軸に白洲主導の出来事として描いた。
(吉田の講和受諾演説原稿を英語から日本語に変えたことについて)
文献によっては、アメリカのアチソン国務長官やシーボルト駐日大使によって英語から日本語に変えられたとするものもある。当番組では、白洲自身の回想(「占領秘話を知り過ぎた男の回想」、「講和条約への道」など)や同行した宮澤元総理の証言、その他一部の学者の説にもとづいて、白洲が日本語に変えたものとして描いた。
(番組で引用した言葉)
「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」
白洲次郎「占領秘話を知り過ぎた男の回想」、「講和条約への道」、など各書で白洲本人が述べている。
(白洲が、憲法の日本案を主導していた松本烝治に述べた忠告)
(白洲)「GHQの考えている内容は、先生が考えているほど生易しいものではありません。少なくとも天皇の大権については大幅に制限を設けないといけません。」
(松本)「私にはできない。そんなことをすれば、私は殺される。」
白洲次郎「占領秘話を知り過ぎた男の回想」より引用
(ホイットニーがGHQ憲法草案を見せた時に白洲たちに述べた言葉)
「あなたがたがの憲法改正案は、自由と民主主義の観点からとても容認できない。ここに我々が持参した憲法案こそ、日本人が求めているものである」
ラウエル文書「1946年2月13日 最高司令官に代わり外務大臣吉田茂氏に新しい日本国憲法草案を手交した際の出来事の記録」より
(ホイットニーがGHQ憲法草案を見せた時に白洲たちに述べた言葉)
「本案は天皇を護る唯一の方法である」「白洲手記」(外務省所蔵)より引用
(GHQ憲法草案を見せられた時の白洲たちの様子)
「白洲氏は、何か異物にでも腰を下ろしたかのように思わず姿勢を硬くした」
コートニー・ホイットニー著「日本におけるマッカーサー」、ジョン・ダワー著 「吉田 茂とその時代」より引用
(GHQ案に基づいた日本国憲法原案を飲んだ時の白洲の言葉)
「今に見ていろという気持ち抑えきれず。ひそかに涙す」 「白洲手記」より引用
(経済再建に賭ける白洲の決意の言葉)
「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」 白洲次郎「頬冠をやめろ−占領ボケから立直れ」より引用
(統制経済を批判する吉田茂の言葉)
「彼らが描いた青写真を日本で実験してみようという、野望に満ちたものであるが、敗戦後の人心では権力的な統制は中々難しい」 吉田茂「回想十年」より引用
(番組の最後に紹介した白洲晩年の言葉)
「私は、「戦後」というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう」 白洲次郎「プリンシプルのない日本」より引用
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
このBlogを チェッカーズに追加 |
このBlogを リーダーに追加 |