2006年05月19日

200年も続いた黒川炭

新編武蔵風土記稿の「黒川村」の項に、「村民農業の暇には、毎年九月より焼き始めて、三月を限りとせり、黒川炭と唱えて、焼くことは等郡(都築郡)または多摩郡にもあり、当村其のもとなるべし、このことはいつの頃より焼きそめしことは伝えざれど、近きことなるにや、」とあります。


江戸に近く、雑木林の多い多摩丘陵にある黒川、栗木、片平、王禅寺、早野の村々では、主に9月から3月の農閑期に炭を焼く農家が多く、江戸や布田宿(ふだじゅく)(調布)などに出荷していました。品質の良い黒川炭は名も通っていたので、この地域で焼かれた炭は、みな黒川炭という名で出荷されていました。

 

江戸時代の中ごろから江戸の町の人々の暮らしも豊かになり、畳が敷かれた部屋では暖房に木炭が使われるようになりました。この木炭の大消費地である江戸への輸送は、主に水上輸送によるものでした。佐倉炭は千葉港から、津久井炭は相模川の荒川港から炭船によって運ばれていました。

そのような中で、黒川炭は江戸に近いということもあって、かず少ない陸送によるものでした。江戸の近い村では、一部仲買問屋(なかがいどんや)を通さずに、行商に歩いていたことも「風土記稿」に記されています。

 

しかし、江戸に近いといっても、運ぶだけで一日かかる上、行商に回ることは大変なことでした。また、江戸では、農民を村へ帰す「人返し令」などの掟(おきて)が出されたこともありました。その後、江戸で店を開くことが出来るようになると、その名簿が江戸幕府に提出されました。

 

『江戸竹木薪問屋仮組』には、「松屋町嘉右衛門借地 栗木屋弥兵衛」

『江戸炭薪仲買人名簿』には、「松屋茂兵衛店 黒川屋松兵衛」

 

が記されています。

黒川村の松兵衛と栗木村の弥兵衛葉、助け合って江戸の松屋町を中心に行商していたようですが、松兵衛は土地を借り、弥兵衛は店を借り、それぞれ黒川屋、栗木屋の看板を掲げて店を開きました。江戸まで来て行商する苦労はなくなりましたが、土地や店の借り賃のほかにも特権に対する多額の上納金を幕府に納めなければならず、江戸での商い(あきない)も楽ではなかったようです。それでも、江戸での木炭の消費は一層高まり、繁盛したようです。

 

黒川炭は、土窯(どがま)で焼く黒炭です。土窯は村人が共同作業で作る場合が多く、江戸時代から大正時代にかけては、威勢のよい「ドヅキウタ」が唄われたと書物に記されています。

 

黒川では最盛期に15軒余りの農家で炭を焼いていました。みながそれぞれ個人で窯を持っていたわけでなく、共同の窯もありました。大きな山をもっている場合は個人で窯を作って焼くことが多く、何年も同じ窯を使うので、地盤の良い場所に作りました。

 

共同で山を買って気を伐り(きり)、焼く時は、伐採する山に合わせて場所を選ぶため、一季節だけ使う場合が多かったようです。

 

窯の準備と共に薪(まき)の準備もします。薪は「クヌギ」や「ナラ」の木が使われ、特にクヌギは、良質な炭になりました。クヌギやナラの木は、一度伐ってしまうと、育ちのよい山でも8年、育ちの悪い山だと12−13年かけないと、炭焼きに使うことができる木には育たなかったといいます。

 

そのため木を伐るのを計画的に進める必要があり、また下草を刈ったり、余計な木を伐ったりして山の手入れをしてきました。この手入れによって、山はいつも整えられていました。炭焼きをしなくなってから、少しづつ雑木林の様子も変わり、今では「山が荒れている」と地元の人は言っています。

 

窯の中に入れる薪は、切り出してから一ヶ月前後のものが最も良かったそうです。窯の中に薪を入れ、火をつけますが、二日くらいしてから においや煙の色を見て煙突を外し、窯の口を閉じます。火をつけてから一週間ぐらいで焼きあがりますが、炭焼きは、火を止める時と窯から出すタイミングが難しく、これによって炭になっていなかったり灰になってしまったりするので大変です。

 

窯の口を閉じるのも、火を止めるのも、窯だしするのも、すべては炭を焼く人の勘です。ですから、熟練が必要でした。

 

窯だしされた炭は4貫目(15kg)入りの炭俵に入れて出荷しました。炭俵は自分の山や周りにある茅(かや)を使って編んで作りました。この作業は主に農閑期の女性の仕事でした。

 

炭の使用も時代と共に広がっていきました。暖房や燃料として使われるのはもちろんですが、食品加工用や工業用のほかに、養蚕が盛んであった地域にとっては、春や秋の蚕室(さんしつ)(かいこのへや)の暖をとるために多く使われました。この黒川や栗木では、炭焼きも養蚕も盛んだったため、ここで焼かれた炭が養蚕にたくさん使われたようです。

 

市川家の炭焼きこのように江戸時代から続いてきた炭焼きですが、昭和30年代に入ると都市ガスやプロパンガス、石油などの化学燃料の押され、木炭の使われる機会がどんどん減っていきました。多くの炭が江戸に出荷され、「黒川炭」というブランド名で名を馳せたこの町の炭焼きも、一軒、また一軒と姿を消していきました。

 

昭和62年(1987年)4月28日。

川崎市で最後まで炭焼きを続けてきた 市川 祐(たすく)さんの家の窯も、妻の千恵子さんと家族の手伝いによって、最後の火が入れられ、この炭焼きを最後に、黒川炭の歴史は静かに幕を閉じました。

 

 

(写真は、土窯と故市川 祐氏、土窯の後ろの木は400年の山桜)

(出典:「ふるさとへ」 川崎市立栗木台小学校発行)

 

昔の黒川の炭のうち、クヌギで焼いた桜炭(クヌギで焼いた炭のことを桜炭という)は、とても良質で「黒光りする皮を付けた炭」と江戸で評判になったそうです。

 

今から50年前のわたしが小学生であった頃、父が自分専用の炭焼き窯を持ち、わたしも炭焼きの手伝いをしたことがあります。火を消した窯の中に入って、炭を取り出す仕事でした。余熱で蒸し暑い窯のなかへ 綿で作った頭巾をかぶって入り、真っ黒になって働きました。

 

窯の在った場所は、小田急多摩線の高架と鶴川街道が交差した 小田急の貸し倉庫があるところの近くです。昔は鶴川街道側から三沢川を渡るための簡単な丸太の端があり、通称「三本橋」と呼んでいましたが、その橋を渡った近くにありました。

 

黒川は変わりました。自分も歳をとりました。