2006年05月14日

黒川の布田道と新撰組

黒川と隣りの町田市真光寺町の境目にある尾根の道は、かって「布田道(ふだみち)」と呼ばれていました。真光寺町や隣りの小野路町(おのじまち)、そして黒川から江戸の向かう時に使われた道で、新撰組の近藤 勇(いさみ)らも通った道です。この道は今なお、一部ではありますが昔の面影を残しています。


黒川は、町田市小野路町と隣接しています。この小野路町は、鎌倉時代、鎌倉と府中を結ぶ鎌倉道の上の道の宿場でした。その後、江戸時代になると、府中・小野路・厚木・伊勢原・大山を結ぶ大山街道の宿として栄えました。

 布田道ルート図

江戸時代、この小野路町から甲州街道の布田(ふだ)を結ぶ「布田道」がありました。この道は小野路宿からは甲州街道を経由して江戸に向かう一番の近道でした。

 

布田五宿といって、布田には上石原宿、下石原宿、上布田宿、国領宿の五つの宿場町があり、小野路の宿と布田の宿を結んでいたのがこの「布田道」でした。

 

 

その「布田道」は、黒川も通り、総延長距離はおよそ13kmありました。今なお、黒川と真光寺町との境界の尾根道に「布田道」の面影が一部残っています。

 

 布田道入口

 

 

鶴川街道から、右の山道を入って布田道へ。

少し行くと、開発のために分断されている所へ出る。

 

 

いずみ叙園そばの入口

 

いずみ淨苑(じょえん)の墓地の右側に入ると、布田道。

 

 

 

 

この尾根道を いずみ淨苑(じょえん)の方から電源開発西東京変電所の方に進むと、「新撰組 近藤、土方(ひじかた)の歩いた道  (左へ行くと)至 布田五宿 布田道 (右へ行くと)至 小野路」という道しるべがあります。その横のT字路にお地蔵様があり、「天保10年(1839年)2月、施主 榎本角次郎ほか江戸二十八名」と刻まれています。

布田道行き先表示

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小野路町の小島史料館刊行の『小島日記』や館長 小島政孝氏の論文『知られざる街道・布田道』(町田地方史研究15号)によると、江戸時代、のちに新撰組を結成する近藤 勇は、しばしばこの「布田道』を通って小野路へ剣術を教えに来ていたということです。

 昔の布田道

また、文久2年(1862年)7月13日には、沖田総司(おきたそうし)(後に新撰組に入隊)が、小野路に剣術を教えに来た際に当時流行していた麻疹(はしか)にかかり、馬に乗せられてこの「布田道」を通って布田宿に送ってもらったと記されています。

 

 

また、布田宿には、大きな炭問屋があって、小野路の町の人たちは、この道を通って炭を出荷していたそうです。この炭の名は、「黒川炭」です。

黒川で焼かれていた炭は良質で有名だったため、同じ都築郡で焼かれた炭はみな「黒川炭」といって出荷されていたようです。黒川で焼かれた炭も、この布田道を通って江戸に運ばれました。

 

          (出典:「ふるさとへ」川崎市立栗木台小学校発行)

 

現在は、ほんの少ししか昔の面影を残す布田道が残されていません。

武蔵野の雑木林の中に、一本の狭い細い道が、江戸に通ずる近道だったとは。

ここを一人で静かに通ると、TVや映画での新撰組のシーンが思い出されます。団体でぺちゃくちゃおしゃべりしながら、チュウインガムを食べながら通っては、昔の雰囲気にはひたれません。

黒川を通る現在の鶴川街道も、江戸時代には布田道そのものでした。

 

また黒川で生産された「黒川炭」という名の炭は、江戸中にその名もとどろく昔の炭の高級品ブランドでした。

江戸幕府の高級官僚や金持ち商人たちの台所の燃料として、また冬の火鉢の炭として、長い間「黒川炭」は大活躍していたのでしょう。