黒川と隣りの
黒川と隣りの
黒川は、
江戸時代、この小野路町から甲州街道の布田(ふだ)を結ぶ「布田道」がありました。この道は小野路宿からは甲州街道を経由して江戸に向かう一番の近道でした。
布田五宿といって、布田には上石原宿、下石原宿、上布田宿、国領宿の五つの宿場町があり、小野路の宿と布田の宿を結んでいたのがこの「布田道」でした。
その「布田道」は、黒川も通り、総延長距離はおよそ13kmありました。今なお、黒川と真光寺町との境界の尾根道に「布田道」の面影が一部残っています。
いずみ淨苑(じょえん)の墓地の右側に入ると、布田道。
この尾根道を いずみ淨苑(じょえん)の方から電源開発西東京変電所の方に進むと、「新撰組 近藤、土方(ひじかた)の歩いた道 (左へ行くと)至 布田五宿 布田道 (右へ行くと)至 小野路」という道しるべがあります。その横のT字路にお地蔵様があり、「天保10年(1839年)2月、施主 榎本角次郎ほか江戸二十八名」と刻まれています。
また、文久2年(1862年)7月13日には、沖田総司(おきたそうし)(後に新撰組に入隊)が、小野路に剣術を教えに来た際に当時流行していた麻疹(はしか)にかかり、馬に乗せられてこの「布田道」を通って布田宿に送ってもらったと記されています。
また、布田宿には、大きな炭問屋があって、小野路の町の人たちは、この道を通って炭を出荷していたそうです。この炭の名は、「黒川炭」です。
黒川で焼かれていた炭は良質で有名だったため、同じ都築郡で焼かれた炭はみな「黒川炭」といって出荷されていたようです。黒川で焼かれた炭も、この布田道を通って江戸に運ばれました。
(出典:「ふるさとへ」
現在は、ほんの少ししか昔の面影を残す布田道が残されていません。
武蔵野の雑木林の中に、一本の狭い細い道が、江戸に通ずる近道だったとは。
ここを一人で静かに通ると、TVや映画での新撰組のシーンが思い出されます。団体でぺちゃくちゃおしゃべりしながら、チュウインガムを食べながら通っては、昔の雰囲気にはひたれません。
黒川を通る現在の鶴川街道も、江戸時代には布田道そのものでした。
また黒川で生産された「黒川炭」という名の炭は、江戸中にその名もとどろく昔の炭の高級品ブランドでした。
江戸幕府の高級官僚や金持ち商人たちの台所の燃料として、また冬の火鉢の炭として、長い間「黒川炭」は大活躍していたのでしょう。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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