2006年04月24日

江戸時代の黒川の領主

書物によれば徳川家康が豊臣秀吉の命令で、三河などの旧領地からはなれ関東に入国したのは、天正18年(1590年)。そして豊臣秀吉がこの世を去ったのが、慶長三年(1598年)のこと。

徳川家康は、関が原の戦い(1600年)で石田三成を破り、慶長8(1603年)に江戸に幕府を開きました。江戸へ移った家康は江戸城防衛のため、江戸城に近い要所の土地は身内、最も信頼できる親族や代々の家臣(旗本)で固めました。

 

家康は江戸と近隣の地域を、徳川家の直轄領(天領)と旗本の知行地に割り振り、その外縁には、新しい家臣団(大名)の領地を配置しました。この知行割りは単に江戸城防衛の意味合いだけでなく、江戸周辺を新しく積極的に開発し、生産力を向上させる目的を持った大局的な視野に立ったものでした。

 

うした方針に基づき、麻生区の地域も次々に天領や旗本領に組みかえられていきました。

 

ラッパ水仙知行割りは家康が江戸城に入城した天正18年(1590年)からはじまりましたが、これは徳川幕府が成立する13年も以前です。天正19年には、早くも麻生区の岡上村に水野近信、栗木村に岡野房恒の二人の旗本が領主として配置されました。

 

 

このときから寛永年間(1624−42)までに、麻生区内の村は次々に旗本領になっています。

慶安年間(1648−51)の記録である『武蔵田園簿』には、当時の村名、村の石高と郡名、領主名が記されています。栗木村、古沢村、五力田村が生まれました。

郡 名

村 名

田畑石高

   領 主 (知行主)

都築郡

黒川

90

駒井右京(親昌)

都築郡

栗木

80

岡野平兵衛(房恒)

都築郡

片平

271.5

前場九三郎(勝門)志光寺(3.5石)

都築郡

五力田

39.9

朝倉織部正(豊明)

都築郡

古沢

65.7

朝倉織部正(豊明)

都築郡

万福寺

70.3

天野孫左ェ門(32.2石)椿井喜之助(38石) 

多摩郡

岡上

278.5

水野伝蔵(近広263.5石)東光院(15石)

寺領があったのは、王禅寺だけでしたが、岡上村の東光院と片平村の志光寺(現在の修廣寺)が新しく寺領を認められました。

知行主はほとんどが旗本で、後に天領となる片平村や上麻生村を除く村々は、明治になるまで旗本領でした。

 

旗本たちは麻生区内だけが所領でなく、ほかにも複数の領地を持っている例も多くありました。例えば五力田村と古沢村の領主朝倉織部正豊明は、多摩郡、都築郡、橘樹郡に約1000石の所領を持っていました。

 

黒川村は元和二年(1616)、駒井親直の知行(領地)となりました。親直の先代は甲斐武田氏の家臣でした。上野国(群馬県)や相模国高座郡などを合わせ、1800石の旗本でした。都築郡内では、川井村も知行地でした。

 

栗木村は、後北条氏の家臣だった岡野房恒が天正十九年(1591)に知行しました。房恒は、下総国香取郡、甲斐国八代郡を加増され、1500石の旗本になりました。都築郡内では長津田村を領し、房恒は同村の大林寺に葬られました。

 

(出典:「わがまち麻生の歴史 三十三話」高橋嘉彦著)

(出典:「ふるさとは語るー柿生・岡上のあゆみー」 柿生郷土史刊行会)