2006年04月18日

良寛さん

良寛さんわたしは良寛さんが好きである。

みすぼらしい托鉢僧として一生を終わった良寛さん。雨の日も雪の日も不自由な托鉢をして農村を廻り歩き、ある時は子供達と手まりをついたり、かくれんぼをしたりして無邪気に遊んだ無欲な良寛さん。


その良寛の言葉の中で強い印象を与えられた言葉は、良寛さんが71歳ごろ書いた一通の手紙。新潟地方に大地震が会って、何千人もの死傷者が出たらしい。その見舞い状を親戚のものに充てた一節。

 

地震はまことに大変に候。

野僧、草庵は何ごともなく、親類中死人もなくめで度く存じ候。

 うちつけに死なば死なずてながらへて

   かかるうき目を見るがわびしき

しかし、災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。

死ねる時節には死ぬがよく候。

是はこれ災難をのがるる妙法にて候。

                           かしこ

 

地震が来たら地震で死ねばよろしい。

最後の時が着たら潔く死ねばよろしい。

そのような時のことを考える事をやめ、思い煩わねばよろしい。

 

(上の手紙の解説:「良寛さんと道元禅師 生きる極意」  

                      曹洞宗管長大本山総持寺 元貫首 板橋興宗著)

 

先のことなどで思い悩むな、まだ起きているわけでもないし起きるかどうかも分からないのだから。若し起きたらその時に考えればよい。今は今をしっかりと生きればよろしい。先のことなど思い煩うな。・・・という 思いっきりの良い言葉で強いインパクトを私に与えたのを忘れられない。

 

桜400桜の季節に詠んだ

散る桜 残る桜も 散る桜」 というのも記憶に残る良寛さんの言葉だ。

 

これも仏教の無常観を素晴らしくかつ平易な表現であらわしている句だと思う。この世のすべて、この宇宙に存在するもの、人の心にあるものまでが、絶えず変化をしていてひと時も同じ状態を保つことなどはありえないという無常観を桜の花が散るという現象を借りてあらわしているのでしょう。咲いている桜は、一つ残らず散るのだ、例外などはあり得ない。この宇宙に存在するものすべてが、例外なく変化をして、今の状態を保ち続けることは無いのだということを、桜の花にたとえているのだと私は理解している。

 

天保二年正月六日(74歳)の良寛さんにもとうとう死ぬときがやってきた時、4年前の70歳のときからお付き合いを始めた貞心尼良寛の最後を見届けて、悲しみのうちに永遠(とわ)の別れを告げました。

  かたみとて何か残さむ春は花 夏ほととぎす秋はもみぢば」   良寛

 

良寛さんはもう貞心尼とのお別れの時を知っていたのでしょうか。

貞心尼とのお別れの歌、

 いきしにのさかひはなれてすむ身にも さらぬわかれのあるぞかなしき  貞心

 

良寛さんのお返しは、

 裏をみせおもてをみせて散るもみぢ    良寛

 

貞心の歌は「生き死にのさかひ離れて住む身」・・・・生死の境をはなれれば仏となる、仏となった僧尼の身にも別れは悲しいというのですが、それに答えて良寛の返句は「うらを見せおもてを見せて散る紅葉」が、末期(まつご)の一句。散っていくもみじでさえ、おもての葉も裏の葉もすべてをさらけ出して、隠すことなく散っていく。良寛さんも貞心尼との短い4年間のお付き合いであったけれど、正直に包み隠すことなく過ごしてきましたという辞世の句でしょう。

 

良寛さんが尊敬していた師と仰ぐ曹洞宗の開祖の道元禅師の歌の中に、良寛さんがお別れのときに歌った句によく似たものがある。

 

道元禅師の一首

春は花

夏ほととぎす

秋は月

冬雪さえて涼しかりけり

 

冬の雪に出会って、寒いともつめたいともいっていない。雪が冴えわたって涼しい、と言っている。(作家:山折 哲雄)

 

道元の最も優れた後継者といわれる良寛さんは、「任運(運にまかす)」または「任天真(天真にまかす)」という言い方を好んだそうです。これは己を離れて大いなる天然自然の法である天真仏にお任せするということです。夏目漱石の座右の銘は、「則天去私(そくてんきょし)」も同様な言葉で、小さな己を離れて、天のままに任せるという意味です。(参考:「道元の読み方」栗田 勇著)

 

道元禅師も良寛さんも、今の現実をありのままに受け入れていて 何の憶測も入れていない。目の前の姿をそのまま捉えている、あれこれ余計なことで悩んだり思い煩ったりしない素直な考え方が素晴らしいとわたしは思う。できたら良寛さんに一度会ってみたいものだ!

 

西 暦    年号  年齢            

1758年 宝暦八  (1)  越後三島郡出雲崎の名主・橘屋山本家の長男として生まれる。

幼名栄蔵。

1783年 天明三  (26) 母のぶ死去(享年49

1795年 寛政七  (38) 父以南、桂川に投身自殺(享年60)。  

1827年 文政十  (70) 秋に貞心尼と初相見。

1828年 文政十一(71) 1112日、三条大地震。

1831年 天保二  (74) 正月6日、申の刻、良寛死去。8日葬式。

 

     天保二年正月六日午後四時没(1831年)

     良寛74才

     良寛の法名   「大愚良寛高首座」

     和島町 隆泉寺に眠る

 

     明治五年二月十一日没(1872年)

     貞心尼75才   

     貞心尼の法名  「孝室貞心比丘尼」

     柏崎市 洞雲寺に眠る

 

                          合掌!!  「南無釈迦尼仏」

 


Posted by tomato1111 at 00:01│忙中閑