応仁元年(1467年)には「応仁の乱」が起き、今日の京都周辺は焼け野原となり、幕府には何の力も無いことが明らかになります。中世末期の日本は、戦国大名が各地に割拠する戦国時代を迎えます。このころ小田原城の城主となった、北条早雲も、風雲に乗じてのし上がった一人です。
応仁元年(1467年)には「応仁の乱」が起き、今日の京都周辺は焼け野原となり、幕府には何の力も無いことが明らかになります。中世末期の日本は、戦国大名が各地に割拠する戦国時代を迎えます。このころ小田原城の城主となった、北条早雲も、風雲に乗じてのし上がった一人です。
北条家三代目の氏康は永禄2年(1559年)に、家臣に命じ『所領役帳』を作成させました。この年までの検地をもとに、家臣の知行高(貫高)を定め、本城(小田原城)に属する家臣と支城の家臣とを明確にしました。
衆には、貫高に応じて軍役、知行役が割り当てられました。この知行役の台帳として作られたのが『小田原衆所領役帳』です。北条氏が支配した武蔵、相模、伊豆国の郷村名と知行主、貫高が記されていて、当時の状況を知る貴重な郷土資料の一つです。
郷 村 名 |
貫 高 |
知 行 主 |
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黒川 |
八貫四一三文 |
小山田弥三郎 |
(他国衆) |
片平郷 |
二八貫九〇〇文 |
大熊修理亮 |
(他国衆) |
麻生 |
八二貫五〇〇文 |
布施蔵人佐 |
(御馬廻衆) |
万福寺 |
一〇貫五〇〇文 |
田中 |
(小机衆) |
奈良岡上 |
三七巻二八二文 |
福島四郎左衛門 |
(小机衆) |
王禅寺(麻生の内) |
五〇貫文 |
王禅寺 |
(小机衆) |
「小田原衆所領役帳」には、江戸時代に使われた『石』でなく『貫』が用いられます。田の場合は、五貫で一町歩です。一町歩は約一ヘクタールですから、例えば片平郷の二十八貫九百文は、六ヘクタール弱の田んぼにあたります。現代の常識から考えると非常に少ない面積のようですが、当時はほとんどが山林原野で、片平の農家戸数もわずかでしたから、田畑の面積もこの程度しかなかったのでしょう。
五力田村、古沢村などの村名が見られないのは、まだ一つの地行単位、地域共同体として認められるほどには発展していなかったのでしょう。岡上も奈良岡上と記されていて、いま
「小田原衆所領役帳」にある大熊修理亮は、片平の熊の谷戸に居を構えて、善正寺を開いたといわれています。もとは在地領主として片平に土着し、知行武士としてとりたてられたと思われます。
黒川、麻生、万福寺の領主は、柿生には居を構えず、土豪が在地給人としての役割を果たしていました。
本来ならば家臣団が結集して領地を検地できれば、年貢も一定の率で徴収できるのですが、検地ができたのは、麻生郷と小山田庄くらいでした。しかし役帳には、前期の表のように、貫高だけが記され、耕地面積や地位(じぐらい)は、一切記載されていません。
後北条氏としては、戦力増強や百姓支配のために、検地や検見を行い、年貢を徴収しました。そのほかには、反銭、懸銭、棟別銭の三役を一定の税率でかけ、そのみかえりを土豪に与え、土豪たちを戦列に加えるようにしていました。
当時の年貢は、江戸時代のように一村全体で責任額を果たせばよいというのではなく、「家」単位に課税され、責任額を果たさなければ、「皆納」にはなりませんでした。したがって、重税にあえぐ農民は、風損や干損等を理由に、減税を訴えたり、滞納したりしました。
(出典:「わがまち 麻生の歴史 三十三話」 高橋嘉彦著)
(出典:「ふるさとは語るーー柿生・岡上のあゆみーー 柿生郷土史刊行会」)
(高橋氏の引用許可受諾済)
300年前の黒川の農地は、八貫というので、今の単位ではおよそ1.7ヘクタール、約5,000坪ということになります。当時はほとんどが山林原野で里山の開墾が進んでいなかったために、猫の額のような狭い農地でわずかな農家が細々と生活をしていたのでしょう。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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