2006年04月06日

黒川の貌(かお)

黒川に住んでおられた 故市川 祐氏が 郷土誌「からむし」第5号(昭和63年10月1日発行) 郷土史シリーズ に発表された 「黒川の貌(かお)」 という随筆を転載します。故市川氏は、樹齢400年の山桜の所有者でした。しばらくお付き合い下さい。


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黒川の貌(かお)

                     市川 祐(たすく)

 

黒川の貌と言ったら鎮守様である汁守神社を指すことに住民は皆頷いてくれることと思う。

神社の敷地が黒川1番地であり、村のど真ん中に位置して、素盞鳴命(すさのおのみこと) 保食命(うけもちのもこと)という祭神以前に鎮守様という村人の拠りどころとして信仰をあつめているお宮なのです。

 

汁守神社全景0年前位前までは、(木立の周囲が)5-6メートル以上もめぐる松や杉の大木が生い茂っていたのですが、次々に枯れてしまったのが残念ですがそれでもまだまだ鎮守の森にふさわしい木立が茂っています。(管理人注:作者が言う20年前とは、平成18年からみると、およそ40年前のことです。)

 

その鎮守様を境にして、片や市街化地域、片や市街化調整地域の地区指定を受けて、どちらに将来性があるのかこの過渡期にさしかかって大きく揺れ動いているのが実情です。

 

小田急多摩線黒川駅と京王相模原線若葉台駅が黒川にできる以前は、柿生駅か、鶴川駅又は南武線長沼駅、或は京王線関戸駅(現桜ヶ丘駅)まで一里半から二里位の道のりを歩かねば電車に乗れなかった頃を思うと、まさに隔世の感がジーンとこみ上げてきます。

 

400桜然しその頃の生活は、肉や魚などは私達家庭の食卓ではめったにお目にかかれなかったし、芋の煮っ転がしや、オツケ(味噌汁のこと)にお新香位で結構事足りていたのです。病気をしても、富山の置き薬くらいで、医者を呼ぶなんてことは余程でないとなかったけれど、その代わり、ボケ老人なんてのも余り見受けなかったようです。

 

春先からは、養蚕、麦のとり入れ、稲作、禅寺丸の出荷、冬には炭焼きと、何年来繰り返してきた産業もガラッと様変わりして、ガラス温室が建ち並ぶ一方、露地栽培、そして、梨などの果樹園芸に変貌して、めまぐるしく変わる生活環境についていこうとやっきになっています。

 

「黒川は自然の宝庫」などと書き立てられて、野草野鳥などの自然観察に大勢の人が見えます。

でも一寸苦言・・・・・・若し野良で働いている人と顔を合わせたら、「コンイチワ」 とか、「ご苦労様です」 くらいの挨拶をしてもらえたら、お互いの気分が和むと思うのですけれど・・・・・・。

 

「私達は百姓とはレベルが違うのよ」的なすまし顔で(実際にはそうでなくても)歩かれると、ついつい、何をぞろぞろ歩ってやがるんだ、暇をもて余してるんだんべ! と言うことになりかねないからです。

 

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作者の市川 祐氏は黒川で最後まで炭焼きを行って 古い伝統を守った方です。 昭和62年(1987年)4月28日に最後の炭焼き窯に火が入れられて、これを最後に黒川炭の歴史に静かに幕が下りました。

農家の人は物静かでおとなしい人が多いです。都会から物見遊山で来る人がいて、農業を営む人を軽視する、蔑視する人がいることも否めません。彼等に対して、思っていることを最後の方で表現しています。