小山田庄 黒河郷と呼ばれ、お仁々局という女性が所有していましたが、貞治(ジョウジ)六年(1367年)、お仁々局が黒河郷の半分を円覚寺の塔頭(タッチュウ)黄梅院に寄進したため、黄梅院の所領となりました。
この間には、黒河郷の領有権をめぐる横領や訴訟事件があったことを黄梅院文書から知ることができます。
(資料:「
武士による支配 黒河郷と御仁々局
黒河郷は、小山田庄に属していました。それがいつの間にか、御仁々局なる女性の領地になりました。この御仁々局とは、宮中に仕える人物なのか、将軍か鎌倉公方に仕える人物なのかはっきりわかりません。ただ領地を持っていることから考えて、相当な身分の女性であったことは間違いないでしょう。
ところが、御仁々局領が土豪らによって、侵害されるようになりました。すでにこの頃は、室町幕府は弱体化していて、出先機関の鎌倉府、関東管領も内紛などで乱れていました。
当然、実力者による土地横領も日常茶飯事でした。御仁々局は、鎌倉府に訴えました。
貞治三年(1364年)十月二十八日、鎌倉瑞泉寺御判で、局の訴えが認められ、土地はもとに戻りました。
しかし、この土地を維持していくことは容易でないとして、三年後に土地の半分を円覚寺の塔頭(タッチュウ)黄梅院に寄進しました。ところが残る半分も続けて侵害されるので、応安五年(1372年)に黄梅院に寄進してしまいました。
その後、至徳四年(1387年)高倉中務少輔なる者が、黒河郷の所有権を主張しましたが、同年三月、鎌倉府はこの訴えを却下しました。
黄梅院領としての黒河郷の名が文書に見えるのは、十五世紀初頭までで、その後は見られません。
それは、応永二十三年(1416年)に始まる禅秀の乱からの関東各地の動乱のため、関東管領武蔵野国守護の山内上杉氏の力が弱まり、特別な保護下にあった黄梅院領のような寺領の権益を守ることができなくなったからです。そのため、地頭層に寺領までも強奪されてしまいました。
(出典:「ふるさとは語る---柿生・岡上のあゆみ---」柿生郷土史刊行会編 )
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わたし達は親がいて、親にはその親がいてと言う具合に、先祖をさかのぼっていくことができます。
640年前までさかのぼったとして、あるいはそこで御仁々局と言う女性に突き当たるかもしれません。
もし御仁々局が未婚の女性であったとしたら、その兄弟姉妹に当たるかもしれません。600年以上の時間が経っているので確証が得られないでしょうが、楽しい夢のある話です。
女性が黒川の領主であったとは!
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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