鎌倉道とか鎌倉街道とか呼ばれる道は、関東一円の武士が、「いざ鎌倉」という時に鎌倉へ馳せ参ずる軍道でした。新田義貞が鎌倉討伐のために通った上ノ道(信濃道)、奥州方面への道として中ノ道、房総・常陸への道としての下ノ道を基本ルートにして、それらにつながる間道、支道、連絡道を含めて鎌倉道と呼んでいます。
鎌倉道とか鎌倉街道とか呼ばれる道は、関東一円の武士が、「いざ鎌倉」という時に鎌倉へ馳せ参ずる軍道でした。新田義貞が鎌倉討伐のために通った上ノ道(信濃道)、奥州方面への道として中ノ道、房総・常陸への道としての下ノ道を基本ルートにして、それらにつながる間道、支道、連絡道を含めて鎌倉道と呼んでいます。
義経主従が通ったと伝えられる道や、奈良(現在の
なぜ、鎌倉道がこのように複雑なルートになったのでしょうか。それは、最短距離で鎌倉と結びたいのですが、昔からの道をつなぎ合わせてつくったため道幅が狭く、政治的、軍事的にどうしても間道や支道が必要だったからです。
また、この道の特徴は、低地を避け、丘陵部を通っていることと、道筋に神社仏閣が多いことです。神社では、八幡宮を筆頭に、熊野宮、諏訪社、杉山社、氷川社があります。仏閣は、禅宗、時宗、日蓮宗の鎌倉仏教が目立っています。
武士の活躍により、前九年の役、後三年の役の時には、秩父一族や武蔵七党などが多摩丘陵を席捲し、兵馬の往来が盛んになりました。また、枡形山の稲毛氏や
室町幕府は、関東支配のため関東管領を置きました。新田氏を討つため国府(府中)の高安寺見陣取ってからは、関東の中心は鎌倉から府中に移りました。その後、管領家の内紛などのため、多摩川や滝山、関戸、小沢、井田、鶴見の各城は争いの火中に入りました。そのため、鎌倉道も軍事道路として重要な位置を占めました。
(写真:市川家の桃の花 2006.03.22)
その後、後北条氏の頃には、武蔵野合戦、上杉、武田との戦い、豊臣秀吉の北条攻めなど、兵馬の往来は盛んでした。
交通及び軍事上重要な存在であった鎌倉道も江戸時代に入り東海道の繁栄とともに、役割が次第に少なくなっていきました。
(出典:「ふるさとは語るー柿生・岡上のあゆみー 柿生郷土史刊行会」)
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当時、黒川の農家の家族が畑で穏やかに農作業に精を出していると、突然馬にまたがった武士が現れ、鎌倉を目指し勢いよく馬にむちをいれてあっという間に疾走して行く姿を、唖然と見ている風景が目に浮かびます。<いざ!鎌倉へ>
秩父・多摩方面から今の多摩市関戸、黒川、岡上を経由して青砥へ向かう鎌倉への近道(バイパス)を「早ノ道」と呼び、使われていたのです。
今は突然消防自動車がサイレンを鳴らして通り過ぎると、「火事はどこだろう?」と農作業の手を休めますが、当時は黒川を駆け抜けていく馬の蹄の音が静寂を破ったのでしょうか?
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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