2006年03月19日

のらぼう菜(川崎・黒川)

 のらぼう1今日は、黒川に住んでいる人の特権として、今の季節だけ味わうことができる素敵な野菜をご紹介いたしましょう。

その名は、「のらぼう菜』と言います。漢字で書くと「野良坊菜」です。

皆さんは余り聞いたことが無い、ましてや食べたことが無いでしょう。

スーパーの野菜売り場には、まず売っていません。


だまされたと思って、黒川農産物直売所へ急いで行き購入してください。農家もこれを専門的に栽培している人が少ないため、販売量もそう多くはありませんので、売切れてしまうことがあるかもしれませんが。

 

のらぼ2のらぼう菜」は、アブラナ科の野菜で、見た目は菜の花に似ています。

春を待ちきれずに 「のらぼう菜が、花を咲かせようと早春から急激に成長し大きくなります。

その成長しつつある「のらぼう菜が、花を咲かせる直前の茎が柔らかいうちに、花の咲く直前のつぼみの状態と「のらぼう菜の茎を収穫して、それを食べます。スーパーなどで売っているのとは、まるっきり違い、食味は殆どエグミやあくが無くかつ品の良い甘さがある、とても口当たりのよい野菜です。 

 

食べ方は、何といっても おひたしにして食べるのが最高です。

今まで食べていたスーパーなどで売っている菜の花とは、品物が違います。食味が違います。病みつきになるおいしさです。くせがありません。忘れられない味です。

 

他には、胡麻和え・酢味噌和え・からし和えに・花部分を天ぷら・茎部分にマヨネーズを付ける・葉部分をさっと炒める・お味噌汁・肉巻き・サラダなど多様な食べ方があります。

 

昔から黒川でも脈々と栽培されていました。

積極的には、川崎市多摩区菅地区等で栽培されており、神奈川県の「かながわブランド」・川崎の農産物ブランド「かわさきそだち」にも認定されています。

 

多摩区役所の「のらぼう菜」を紹介する記事に拠れば、

川崎市多摩区菅地区でののらぼう菜栽培の歴史は古く、約800年前までさかのぼる。長く、この地区では冬場の貴重な食料として重宝され、江戸時代には天明・天保の大飢饉を救ったという伝説まで残っているほどだ。しかし近代に入ると同地区でも都市化が進み、自家消費用野菜として細々と栽培されるにとどまっていた。そんな中、平成13年に同地区の栽培農家が「菅のらぼう保存会」(高橋孝次会長)を結成。のらぼう菜が持つ「郷土の味」を知ってもらい、その種を後世に伝えることが目的だった。市場に出るとその味が評判を呼び、今では農協で販売されるとすぐ売切れてしまうほどの人気ぶりだという。

 

のらぼう菜は、アブラナ科の一種。収穫時期は、2月中旬から4月くらいまで。春先にとう立ちした花茎を摘み取り、食す。おひたしをはじめ、花部分を天ぷらにしたり、茎部分にマヨネーズを付けたり、葉部分をさっと炒めて食べても美味しい。味は菜の花によく似ているが、菜の花よりも苦くなく食べやすい。栄養価も高く、ビタミンA・Cのほか、鉄分、食物繊維なども豊富だ。また糖分が多いのも特徴で、糖度は7・5から8。普通の野菜の倍も糖分を含んでいるのだとか。

 

「朝積んでいると、茎の辺りからキラキラと蜜が出てるんですよ」と高橋さん。完全無農薬のため、暖かくなり蝶などがこの蜜を求めて飛びはじめると、やがて収穫時期は終わりを告げる。「のらぼう菜の味を知ってもらいたいのはもちろん。でもそれと同時に、種の保存も考えているんですよ」と語る高橋さん。

 

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多摩図書館で配布されていた別の「のらぼう」に関する資料

 

『のらぼうの由来』

『のらぼう』の由来は、定かではありませんが、遠く鎌倉時代。稲毛庄の領主、稲毛三郎に嫁いできた源頼朝の娘に付き添ってきた従者が、稲毛庄に持ち込んで栽培を続けたのではないか、との話もあります。この話ですと、800年もの昔のことになります。

橘樹郡菅地域では、主に農家の自家用野菜として、代々栽培が続けられ、他に広がることはありませんでした。

 

『のらぼうの伝播』

ところが、一つの出会いにより「野良坊」が他の地域に伝わることになりました。

今からおよそ300年程前の江戸時代。多摩川は水運の盛んなところで、上流の木材を江戸に運ぶ「筏流し」(いかだながし)が盛んでした。

この「筏流し」の船頭は、川を下る時は筏に乗って操り、川を上る時は、帆掛け舟で上れるだけ遡り、そこからは徒歩で戻る道筋でした。

 

この所々に船頭が泊まる場所がありました。帆掛け舟で上れる限界が菅でした。そのひとつに 「菅船宿大上丸」という船宿がありました。

 

菅は地名、船宿は字名、大上丸は屋号で、現在も菅野戸呂の堤防沿いに残っています。

 

菅船宿大上丸に泊まった船頭が、食事のおかずに出された「のらぼう」の美味しさに、種を求め栽培法を教わり、故郷に持ち帰りました。

 

こうして「のらぼう」が、多摩川上流の東京都下五日市地区に伝わりました。菅船宿大上丸での話も「のらぼう」の由来として語り継がれています。現在では「のらぼう」が「あきる野市」の特産物になっています。

あきる野市小中野の子生神社境内には、「のらぼう」の歴史を刻んだ「野良坊菜之碑』が建っています。

 

『のらぼうの働き』

この碑には、幕府の代官が、救荒野菜として、野良坊菜の栽培を地元12カ村の盟主に命じ、天明、天保の大飢饉に多くの人命を救った、と書かれています

 

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上記資料により、「のらぼう菜」のルーツが川崎市菅地区にあり、江戸時代に多摩川を介して上流の「あきる野市」方面に伝わっていったのだと言うことが分かりました。

 

種は知り合いの東京農業大学の教授から、大学の農園で育てている血筋の明確な『のらぼう菜』の種を分けていただき、今も育てています。