わたし達の住むはるひ野・若葉台・黒川は、開発が進み住宅地に変貌しつつありますが、昔は尾根に囲まれた谷戸(やと)の沢山ある緑豊かなところでした。
わたし達の住むはるひ野・若葉台・黒川は、開発が進み住宅地に変貌しつつありますが、昔は尾根に囲まれた谷戸(やと)の沢山ある緑豊かなところでした。
谷戸にはそれぞれ名前がついていました。
農家の人が田んぼへ行く時も、その谷戸の名前を使っていました。
黒川の人たちは、その谷戸の名前を聞くと、目の中に昔の懐かしい里山の風景がタイムスリップして浮かんでくることでしょう。
若い人は、古老に聞いてみてください。
瀬沢(うしろざわ)谷戸、ろうば谷戸、横峰(谷戸はつかない)、大亀谷戸(おおかめやと)、海道谷戸(かいどうやと)、隠れ谷戸、池谷戸(いけのやと)、ウマヤノ谷戸、入谷戸(いりやと)、石神谷戸(いしがみやと)、奥ノ谷戸(おきのやと)と呼ばれる谷戸がありました。谷戸の奥まで田や畑が作られていました。
黒川青少年野外活動センター(旧黒川分校)の脇に、婆々尾根(ばばおね)と呼ばれる尾根道がありました。今ではすっかり低くなっていますが、昔は黒川分校の校庭と同じくらいの高さがありましたが、3回掘り下げて今の高さになりました。
明治41年(1908年)に山道をけずり、大正11年(1922年)には道幅を広げ、栗木と黒川の境を切り通しにしました。
昭和11年(1936年)に県道になると、切り通しをさらに広げ、坂を緩やかにしました。
この「婆々尾根」の名前の由来は、詳しくはわかりませんが、骨が折れるほどの険しい尾根道だったからとか、馬が通れない尾根道だったからとか、尾根の上におばあさんが住んでいたからとも言われています。
「婆々尾根」は開発のために寸断され、想像するしかありません。
ただ昔の人たちが、多くの人たちがこの「婆々尾根」を人々の交流のために汗を流して使いやすくしてきたことを忘れることはできません。
今から50年前は中学校が柿生にあったため、黒川の児童は自転車で柿生まで通学していました。片道4km。道路は砂利道で未舗装でした。
中学校の帰りが遅い冬の暗くなった夕方、道路わきの雑木林が鬱蒼と道を覆い、人一人通らない急な坂道「婆々尾根」とその近くを一人で自転車を引いて登ることはとても勇気がいることでした。
ホンの僅かな草の擦れ合う音にも震え上がりました。
当時、子供ながらに「婆々尾根」という言葉の意味は分かりませんでしたが、何か目に見えない怖いものを感じていました。
私は婆々尾根に対して、深沢七郎の「楢山節考」を思い浮かべます。
婆々尾根の栗木側には、当時 人家が無く子供から見ると底が無いような
『そこに捨てられたら、生きて帰れないのではないか、谷が急峻でよじ登れないのではないか』と子供心に私は思っていました。
そこで連想したのが口減らしのための黒川版「楢山節考」です。
年老いた老婆が、田畑の農作業ができなくなった年老いた老婆が、貴重な食料をただ食べていては申し訳ないと自ら家族に別れを告げ、山に入ってひたすら死を待つという「楢山節考」を考えてしまいます。
黒川版「楢山節考」は、私個人のイメージの世界であり、そのような言い伝えはありませんが。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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