2006年02月10日

「多摩よこやまの道」と防人(さきもり)

今日はわたし達の街の散歩コースで「多摩よこやまの道」にまつわる歴史的な背景などのお話をいたします。 


天智2年(663年)、大和朝廷の軍が朝鮮半島で、唐・新羅(しらぎ)の連合軍に大敗しました。その前年 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、斉明天皇とともに九州に出陣していた170隻の軍船と27,000の兵を朝鮮に派遣していましたが、完敗したのです。

 

以来、九州防衛のため東国各地から兵士が徴用されるようになりました。これが防人(さきもり)のはじまりです。

防人(/前守)「崎守」の意で、西海道の要所を守る兵士のこと)の、任期は3年で、3年毎に交替します。桓武天皇の代に廃止されますが、廃止後は、「兵士」がその役を務めます。

 

防人は東国各国の軍団から選ばれ、三年間の任期も大変でしたが、往復の旅もきびしいものでした。父母や妻、恋人たちと最後の別れを惜しみながら、兵士たちは出発しました。もうふたたび生きて会うことはできないかもしれない、悲しい、つらい別れでした。

 

都築郡(つづきぐん)(わたし達の住む黒川は、かっては都築郡であった)と橘樹郡(たちばなぐん)の防人は、国府である府中に集合し、多摩丘陵を越え、足柄山を通って遠い筑紫(北九州)へと旅立って行きました。

 

丘の上広場この府中に集合した防人たちが通った道が、麻生区黒川と多摩市の境にある丘陵の 「多摩よこやまの道」です。

黒川・はるひ野と多摩市の多摩ニュータウンとの境にある尾根筋は、古代から武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、また西国と東国を結ぶ交通の要塞でした。

 

万葉集20巻 4417に

赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」と詠われています。(解説:安島喜一氏のHP

 

東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことは殆どありませんでした。

 

武蔵野を眺望できる最後の尾根道「多摩よこやまの道」で、故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かんできます。

 

東国に赴く防人の中に、橘樹郡の物部真根(もののべまね)がいました。彼の防人に行く思いを

家ろには葦火(あしぶ)焚(た)けども住み好(よ)けを筑紫に到りて恋しけもはも

(大意:私の家では、乾した葦(あし)を焚くような貧しい生活だったが、それなりに幸せだったので、遠い筑紫の国に行ったらどんなにか恋しく思われることだろう。)

 

これに対して妻の椋掎部弟女(くらはしおとめ)は、次のように詠んで、持たせた針にその愛を託しました。夫を思いやる妻のやさしい心が伝わってきます。

 

草枕旅の丸寝の紐絶(ひもた)えば吾が手と付けろこれの針持(はるも)し

(大意:筑紫まで着物のまま寝てしまうような長旅の途中で、もし着物の紐が切れたらこの針で自分で付けてくださいね。)

 

わが行きの息衝(いきつ)くしかば足柄の峰延(は)ほ雲を見とど偲ぶ(しぬ)ばね

(大意:私の旅が気掛かりで、心細く切なくなったら、足柄の峰に漂う雲を見ながら私を偲んでほしい。)

 

(参考出典:「わがまち麻生の歴史 三十三話」  高橋 嘉彦著)

 

多摩よこやまの道に行かれましたら、どうか今からおよそ1350年前の筑紫国(北九州)へ赴く、防人(さきもり)になったつもりで、遥か所沢や府中方面を望んで、二度とこの地には戻れないであろう防人のかなしみの気持ちを、じっくりと味わってください。

 

ゆっくりと丘陵の多摩よこやまの道を、できれば無言で歩きながら、自分の妻、可愛い子等、いとしい恋人達と 二度と会えないのだと心の中で別れのシミュレーションをしてください。そしてはるか遠くに見える町並みを、二度と戻れない肉親や親しい人が住むふるさとと思ってください。「多摩よこやまの道」でお会いしましょう!