今日はわたし達の街の散歩コースで「多摩よこやまの道」にまつわる歴史的な背景などのお話をいたします。
今日はわたし達の街の散歩コースで「多摩よこやまの道」にまつわる歴史的な背景などのお話をいたします。
天智2年(663年)、大和朝廷の軍が朝鮮半島で、唐・新羅(しらぎ)の連合軍に大敗しました。その前年 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、斉明天皇とともに九州に出陣していた170隻の軍船と27,000の兵を朝鮮に派遣していましたが、完敗したのです。
以来、九州防衛のため東国各地から兵士が徴用されるようになりました。これが防人(さきもり)のはじまりです。
防人(/前守)「崎守」の意で、西海道の要所を守る兵士のこと)の、任期は3年で、3年毎に交替します。桓武天皇の代に廃止されますが、廃止後は、「兵士」がその役を務めます。
防人は東国各国の軍団から選ばれ、三年間の任期も大変でしたが、往復の旅もきびしいものでした。父母や妻、恋人たちと最後の別れを惜しみながら、兵士たちは出発しました。もうふたたび生きて会うことはできないかもしれない、悲しい、つらい別れでした。
都築郡(つづきぐん)(わたし達の住む黒川は、かっては都築郡であった)と橘樹郡(たちばなぐん)の防人は、国府である府中に集合し、多摩丘陵を越え、足柄山を通って遠い筑紫(北九州)へと旅立って行きました。
この府中に集合した防人たちが通った道が、麻生区黒川と多摩市の境にある丘陵の 「多摩よこやまの道」です。
黒川・はるひ野と多摩市の多摩ニュータウンとの境にある尾根筋は、古代から武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、また西国と東国を結ぶ交通の要塞でした。
万葉集20巻 4417に
「赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」と詠われています。(解説:安島喜一氏のHP)
東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことは殆どありませんでした。
武蔵野を眺望できる最後の尾根道「多摩よこやまの道」で、故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かんできます。
東国に赴く防人の中に、橘樹郡の物部真根(もののべまね)がいました。彼の防人に行く思いを
「家ろには葦火(あしぶ)焚(た)けども住み好(よ)けを筑紫に到りて恋しけもはも」
(大意:私の家では、乾した葦(あし)を焚くような貧しい生活だったが、それなりに幸せだったので、遠い筑紫の国に行ったらどんなにか恋しく思われることだろう。)
これに対して妻の椋掎部弟女(くらはしおとめ)は、次のように詠んで、持たせた針にその愛を託しました。夫を思いやる妻のやさしい心が伝わってきます。
「草枕旅の丸寝の紐絶(ひもた)えば吾が手と付けろこれの針持(はるも)し」
(大意:筑紫まで着物のまま寝てしまうような長旅の途中で、もし着物の紐が切れたらこの針で自分で付けてくださいね。)
「わが行きの息衝(いきつ)くしかば足柄の峰延(は)ほ雲を見とど偲ぶ(しぬ)ばね」
(大意:私の旅が気掛かりで、心細く切なくなったら、足柄の峰に漂う雲を見ながら私を偲んでほしい。)
(参考出典:「わがまち麻生の歴史 三十三話」 高橋 嘉彦著)
「多摩よこやまの道」に行かれましたら、どうか今からおよそ1350年前の筑紫国(北九州)へ赴く、防人(さきもり)になったつもりで、遥か所沢や府中方面を望んで、二度とこの地には戻れないであろう防人のかなしみの気持ちを、じっくりと味わってください。
ゆっくりと丘陵の「多摩よこやまの道」を、できれば無言で歩きながら、自分の妻、可愛い子等、いとしい恋人達と 二度と会えないのだと心の中で別れのシミュレーションをしてください。そしてはるか遠くに見える町並みを、二度と戻れない肉親や親しい人が住むふるさとと思ってください。「多摩よこやまの道」でお会いしましょう!
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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