7世紀の半ばの645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)がクーデターで政治の実権を握り、中国の制度にならい「大化」という元号を定め、政治の基本理念を示しました。
7世紀の半ばの645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)がクーデターで政治の実権を握り、中国の制度にならい「大化」という元号を定め、政治の基本理念を示しました。
内容は、1.天皇を国の最高権力者とし、中央集権の行政機構 2.全国の土地と人々をすべて国家、即ち天皇の所有 3.公民の戸籍を作り、田畑を調査し、一人ひとりに土地を割り当て一定量の稲を中央政府に納める 4.国、郡、里の制度を導入し長官を置いて地域を統括させる などでした。
大化の改新後、武蔵国は朝廷から任命された国司が納めるようになり、府中(
武蔵国の郡は、橘樹(たちばな)、都築(つづき)、久良(くらぎ)、多麻、荏原、豊島、足立、新座、入間、高麗、比企、横見、埼玉、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はたら)、榛沢(はむさわ)、那珂(なか)、児玉、賀美、秩父 です。
武蔵国の郡は、実に21郡を数え、陸奥国の35郡に次いで全国で2番目です。3位は美濃国の18郡でした。
わたし達が住んでいる
橘樹郡には、細山村、高石村、金程村の3の村が麻生区にありました。
明治5年に作られた戸籍によると、都築郡に属した11村の総戸数は520戸。黒川村は62戸で人口は363人、栗木村は37戸で人口が220人と記されています。
明治22年の市制・町村制施行の時、橘樹郡の3村は生田村に編入され、都築郡の岡上村を除く10村は、禅寺丸柿の生産が多いこともあって村名を「柿生村」とし、わたし達の住むこの地域は、柿生村大字(おおあざ)黒川、柿生村大字栗木と呼ばれました。
昭和14年には、都築郡柿生村と岡上村が川崎市に編入されました。
これによって約1000年以上にわたって歴史に登場した都築郡と50年間存続した柿生村の地名は消えていきました。
武蔵国は今の東京都を中心に、埼玉県、神奈川県の
現在の神奈川の県域には、相模国がありました。相模国は、足上(あしがらかみ)、足下、大住(おおすみ)、余綾(よろき)、愛甲(あゆかわ)、高座(たかくら)、鎌倉、御浦(みうら)の8郡でした。
(参考:「わがまち麻生の歴史 三十三話」 高橋嘉彦著、「ふるさとへ」川崎市立栗木台小学校)
わたし達の住む 黒川地区は、かっては
当時は「武蔵野国都築郡柿生村大字黒川字宮添○○」という具合に住所表示されていました。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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