2006年02月06日

武蔵国と都築郡

7世紀の半ばの645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)がクーデターで政治の実権を握り、中国の制度にならい「大化」という元号を定め、政治の基本理念を示しました。


内容は、1.天皇を国の最高権力者とし、中央集権の行政機構 2.全国の土地と人々をすべて国家、即ち天皇の所有 3.公民の戸籍を作り、田畑を調査し、一人ひとりに土地を割り当て一定量の稲を中央政府に納める 4.国、郡、里の制度を導入し長官を置いて地域を統括させる などでした。

 

大化の改新後、武蔵国は朝廷から任命された国司が納めるようになり、府中(東京都府中市)に国府がおかれました。国府とは、いわば県庁所在地です。武蔵国の国府は、近年の調査で府中市の大国魂(おおくにたま)神社付近であることが明らかになりました。

 

蝋梅1武蔵国の郡は、橘樹(たちばな)、都築(つづき)、久良(くらぎ)、多麻、荏原、豊島、足立、新座、入間、高麗、比企、横見、埼玉、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はたら)、榛沢(はむさわ)、那珂(なか)、児玉、賀美、秩父 です。

 

 

武蔵国の郡は、実に21郡を数え、陸奥国の35郡に次いで全国で2番目です。3位は美濃国の18郡でした。

 

わたし達が住んでいる麻生区黒川は、国郡制により武蔵野国都築郡(むさしのくにつづきぐん)に編入されました。都築郡は、黒川村をはじめとして栗木村、万福寺村、古沢村、五力田村、片平村、上麻生村、下麻生村、王禅寺村、早野村、岡上村の11の村が麻生区にありました。

 

橘樹郡には、細山村、高石村、金程村の3の村が麻生区にありました。

 

明治5年に作られた戸籍によると、都築郡に属した11村の総戸数は520戸。黒川村は62戸で人口は363人、栗木村は37戸で人口が220人と記されています。

 

明治22年の市制・町村制施行の時、橘樹郡の3村は生田村に編入され、都築郡の岡上村を除く10村は、禅寺丸柿の生産が多いこともあって村名を「柿生村」とし、わたし達の住むこの地域は、柿生村大字(おおあざ)黒川、柿生村大字栗木と呼ばれました。

 

昭和14年には、都築郡柿生村と岡上村が川崎市に編入されました。

これによって約1000年以上にわたって歴史に登場した都築郡と50年間存続した柿生村の地名は消えていきました。

 

武蔵国は今の東京都を中心に、埼玉県、神奈川県の川崎市横浜市にまたがる広大な面積を有しており、全国でもトップクラスの大国でした。

 

現在の神奈川の県域には、相模国がありました。相模国は、足上(あしがらかみ)、足下、大住(おおすみ)、余綾(よろき)、愛甲(あゆかわ)、高座(たかくら)、鎌倉、御浦(みうら)の8郡でした。

 

(参考:「わがまち麻生の歴史 三十三話」 高橋嘉彦著、「ふるさとへ」川崎市立栗木台小学校)

 

わたし達の住む 黒川地区は、かっては東京都府中市におかれた国府「武蔵野国」の管轄化にあった時代があり、その当時の地名である「武蔵国都築郡」という呼称だけは、昭和14年まで約1千年もの間 続いていました。

当時は「武蔵野国都築郡柿生村大字黒川字宮添○○」という具合に住所表示されていました。