日本の正月行事は、元旦を中心とする大正月と15日を中心とする小正月の二つに分かれます。小正月の行事の一つに、門松、しめ縄、すす払いの竹などを集めて焼く火祭りが、「せいの神」です。「せいの神」というのは、道祖神(どうそじん)のことを指し、この小正月(15日)の火祭りは、道祖神のお祭りでもあります。これは、お正月にお迎えした神様をお送りする日本の伝統的な行事です。
日本の正月行事は、元旦を中心とする大正月と15日を中心とする小正月の二つに分かれます。小正月の行事の一つに、門松、しめ縄、すす払いの竹などを集めて焼く火祭りが、「せいの神」です。「せいの神」というのは、道祖神(どうそじん)のことを指し、この小正月(15日)の火祭りは、道祖神のお祭りでもあります。これは、お正月にお迎えした神様をお送りする日本の伝統的な行事です。
宅地化による場所の確保の問題などがありますが、黒川の人々を固く結び付ける大切な伝統行事として地域ぐるみで子どもと大人が協力して続けられています。
昔から営々と続く「せいの神(せえの神、どんど焼き、塞の神、左義長)」は、黒川でも新年の風物詩として途絶えることなく連綿と続けられてきています。
ご多分にもれず黒川での設営地も、地域開発の影響を受けて今の新しい場所へ、地主の御厚意によって移ってきました。
皆それぞれ仕事を持っている大人と冬休み中の子どもが1月7日に集まり、伝統を守ろうと朝から「せいの神」の建立に精を出します。
こども達は、「せいの神」が完成すると家を一軒一軒廻って、「お神酒銭(おみきせん)くんなー!」と声を出し、せいの神を造営したいわば労賃を集めて廻ります。
集まったお神酒銭は中学2年生の親方が、造営に参加した子供達の学年を考慮して高学年は多く、低学年は少なく分け与えます。昔はこのお金がお正月のこども達の貴重な収入源でありました。
昔は、7日に「せいの神」が完成して点火される日までの間、心ない人に火を点けられることを恐れて、大人が交代で「せいの神」の中で寝泊りしたと聞いています。
また昔は大きな「せいの神」のなかで、大人たちがお神酒をいただいたり、お汁粉やお雑煮をつくって食べたと言うことを聞いたことがあります。
黒川では、「せいの神」の設営地が2ヶ所あります。ひとつは、上(かみ)地区、もうひとつは、中(なか)・下(しも)地区でそれぞれ別の「せいの神」を設営します。
平成18年度の「せいの神」は、上地区の高さが17m、中・下地区の高さが16mという大変立派なものです。これは
黒川では1月14日の夕方に点火をする慣わしでしたが、サラリーマンの家庭が増えたため平日を避けて、1月15日前後の土曜日の夕方に点火するようになりました。
地域によっては、早朝に点火する所や、昼間に点火するところもありますが、黒川は日が沈んだ夕方の5時ごろに点火する慣わしです。
点火の日は 母親が上新粉(米の粉)でお団子を作り「せいの神」に備えます。父親は山に入って、お団子を焼く時に必要な樫の木の小枝や篠竹を用意します。
点火の際は 黒川消防団の消防団員と消防車が万が一のために出動して点火を見守ります。
最初に青竹に火がつくと、大きな破裂音が連続して響き勇壮な雰囲気となります。
勢いよく燃え上がった火も落ち着きはじめると、おき火が生まれます。おき火を待って樫の木や篠竹などの先に団子やお餅を刺して焼きます。
また昔は「せいの神」の燃えさし(杭など)は魔除けになるといわれ、燃え盛っている火を巧みに避けながら 競って燃えさし(杭など)を抜き取って家に持ちかえり、門口に立てておきました。
おじいさんやおばあさんに手を引かれて、暗い中を家族単位で「せいの神」に来られる人も多くいます。
「せいの神」の清らかな火にあたることにより、またおき火で焼いた団子・餅を食べることにより 当年一年間は風邪を引かないと 昔から言い伝えられています。
この「黒川のせいの神」は、今後も毎年休むことなく継続して行くでしょう。
黒川の人々に、「せいの神」を建立しようとする意思がある限り続きます。よき伝統である「せいの神」は、黒川の人を結びつける大事な行事だからです。
但し「せいの神」の主要材料である孟宗竹(もうそうだけ)が手に入る竹薮(たけやぶ)があることと、近くに人家がなく火災の心配のない設営地が提供される必要があります。
(写真提供:野島 保氏)
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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