昔、今から4-50年前の黒川は専業農家も多く わらぶきの農家が多くありました。
当時12月下旬の黒川の農家では、お正月を迎える準備に忙しい日々が続きました。
昔、今から4-50年前の黒川は専業農家も多く わらぶきの農家が多くありました。
当時12月下旬の黒川の農家では、お正月を迎える準備に忙しい日々が続きました。
山から切ってきた竹笹を使って、農家の土間を中心に家族総出で、すす払い(大掃除)を行いました。おかずや味噌汁を作るために煮炊きするための囲炉裏と、ご飯を焚くかまど、風呂釜などから出る真っ黒のすすが天井から面白いように降ってきました。当時はプロパンガスなどもなく、燃料は里山から取ってきた雑木と落ち葉が主体でした。
黒川でプロパンガスが使えるようになったのは、昭和36年(1961年)のことです。余談ですがプロパンガスが入ってくると、里山へ燃料の雑木を取りに行く必要がなくなりますので、里山の手入れがおろそかになり、山が荒れるという現象が起きて現在に至っています。
農家の玄関入口には、山から切ってきた松を使って門松を飾りました。
玄関の向かって右側には男松(黒松)、左側には女松(赤松)と竹笹をそれぞれ飾ります。松といっても葉先だけでなく直径5−6cm、長さ1mの松の木を杭状に切って玄関の脇に突き刺しました。
玄関の上には、今年の稲わらを使った主人が手作りのしめ縄を飾ります。
12月28日には多くの家で、正月用餅つきが行われます。
28日は、日が良いとされていました。農家の土間に昔からの欅で作った臼を置き、かまどではその年の新米のもち米をせいろで蒸かして、威勢よく父親がつき、母親がこね役でした。
大体1升から1.5升のもち米で、10から20臼の餅を一気につきます。
餅が柔らかいうちに、神様に備えるお供え餅(鏡餅)を先ず作ります。次に当日の食べる餅として、あんころ餅、きな粉餅、大根としょうゆの入った辛味もちが作られます。
残った多くの餅は、平らに伸ばされたのし餅で、一つの座敷を全て埋めるぐらいの量がありました。バリエーションの餅として、粉状の青海苔を餅の中に入れて、緑色の餅もつきました。
この餅が三月のお雛様の餅つきまでの間の大事な食料になります。
夕方囲炉裏で味噌汁を煮ている時などは、燃える火のそばで餅を焼きました。
座敷で暖を取る火鉢の上でも餅を焼きました。
餅が硬くなり始めたら1cmぐらいのサイコロ状に切り、あられにします。これも囲炉裏の上で、ほうろくを使ってあられを炒り、軽くしょうゆをまぶして冬の間の子供達のよいおやつになりました。
大晦日には、神棚を祓い清め、お社から古いお札を出して、氏神様である汁守神社を通して授かった新しい「天照皇大神宮(あまてらすおおみかみ)」「汁守神社札」などを納めます。新しい榊の木、米、酒、水をお供えして新年を待ちます。年神様(年の初めにお迎えしてお祭りする神様)、三宝荒神様(かまどの神様)、水神様(川の神様、水の神様)、火の神様(火を司る神様)もお祭りします。
また大晦日には、これも自分の家で作った小麦粉を用いたうどんを作り、夕食は家族揃って紅白歌合戦を見ながら、年越しのうどんを食べました。
ラジオで新年のカウントダウンを聞き、年が明けたらすぐに井戸へ走って新しい水を汲み、神様と仏様に「若水」として差し上げました。
正月3ヶ日は、主人である男の人が朝のお雑煮を作りました。日頃の女の人の食事準備の苦労を3ヶ日だけでも、楽にしてあげたいというしきたりでした。このときだけ女性陣は「雑煮の支度ができたぞ!」という男の声を聞くまで朝になっても布団の中で、ゆっくりと休むことができました。
子供達は3ヶ日の朝のお雑煮で、いくつの餅が食べられるかを競ったものです。
元旦の朝 お雑煮を食べた主人は、氏子として村の鎮守様である汁守神社へ、初詣の新年の挨拶と祈願に行きます。神社の拝殿で神様に祈願を行った後、社務所兼公会堂で氏子が集まり、お神酒を酌み交わして親しく歓談します。
また菩提寺である西光寺へも初詣に行き、お寺様に新年の挨拶を行います。
お寺様でも檀家の人に対して、接待がありここでは、般若湯(ハンニャトウ、お酒)が振舞われます。
元旦は、この汁守神社への初詣と、菩提寺への初詣を行うのが慣わしで、それが済んでから自宅でゆっくりと届いたばかりの年賀状を見るなどして、新年を祝います。
子供達は、凧揚げに興じました。風が常時吹いている山の上近くにある畑が、絶好の凧揚げ場でした。畑ですので、木立などの障害物がありませんでした。凧の足には新聞紙を切って使いますが、その長さなどをそれぞれ工夫しました。
いまでは昔の風情を残す わらぶきの農家も数少なくなり、現代的なつくりの家が増えたため、土間もなく、家で臼と杵を使って餅をつくということは殆どなくなりました。
門松も本当の松と竹を使ったものの飾りつけは、殆ど見られません。里山が消えたのも大きな原因でしょうか?
昔の風習が少しずつ消えていくのを寂しく感じるのは私だけでなく、また歳のせいばかりではないでしょう。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
| このBlogを チェッカーズに追加 |
| このBlogを リーダーに追加 |