2005年12月18日

忙中閑―無常について思う

新しい仏壇を我が家に迎え先祖の位牌をそこに安置したので、菩提寺 曹洞宗西光寺の住職に 先祖と仏壇に開眼供養をお願いした時のことです。


saikouji

 

ねんごろな読経が済んで、住職から仏壇のお祭りの方法について説明が行われました。

その時、仏壇のお花に造花を飾る人もいるが、出来れば生花を飾って欲しいと説明がありました。

 

 

わたし達はともすれば、自己中心的な考えを持っています。

現在の状況が、いつまでも続くものと考えがちです。

親子の関係、夫婦の関係、自分の健康、会社の成績、親しい友人との関係、家、車、庭の木々、国の政党、日本のGNP,川の流れ、南極の氷、海水の温度、地球環境、果てはわたし達が住む宇宙まで、ひと時も休まず変化しています。

何も無い宇宙に地球が誕生して、46億年。わたし達の住むこの宇宙でさえ、ひと時も休まず膨張を続けている、やがて爆発をして消え去る運命にあるといいます。

 

saikouji1私も貴方も 猫や犬も、生れた瞬間から死に向かって、状況は常に変わっていきます。仏教では、人の一生を「生老病死」という言葉で表しています。人は生まれ、年をとり、病に悩まされ、いずれは死にいくという厳然たる事実です。時間軸の長短はありますが。

 

 

この世に存在する全てのものは、無常なのです。

時間の経過とともに、同じ形態は長続きせず、常に変わっています。無に向かって変わって行くのです。同じ常態は無い、即ち無常なのです。

 

住職のお話は、仏壇の生花の華やかな姿から、枯れていく様を目の前にして、この世のはかない全ての命が、死を迎えるという事実を考えて欲しい。同じ常態がいつまでも続かないということを理解して欲しい。無常ということを生花を通して考えて欲しい。

それにより今おかれている環境の中で、「今行うべきことを悔いの無いように最善を尽くして欲しい、明日といわず今すぐ行って欲しい」ということを説きたかったのではないかと、私は思いました。

 

西光寺の先代の住職との会話の中で、「この世は無常である」という言葉を聴いたことがありますが、そのときの私の頭の中では、「この世は無情である」と理解していました。


Posted by tomato1111 at 07:38│忙中閑