2005年12月14日

新編武蔵風土記稿巻之八十六 の抜粋

 

ラッパ水仙ふるさとの昔を考察する際に、貴重な文献として避けて通れないものの一つに「新編武蔵風土記稿」があります。今日は、「新編武蔵風土記稿」のなかで、黒川について触れている八十六巻をご紹介いたします。昔の記述を転記したため、原本に100%正確では無いことをお許し下さい。


 

硬い文章ですがどうかお付き合いいただきたいと考えます。

「はるひ野・若葉台・黒川の生活事典」に記載されていたと言うことだけを記憶していただくだけでも、ありがたい事です。

 

新編武蔵風土記稿巻之八十六

都筑郡之六 小机領(二百三十一頁)

 

小机領は、郡中北の方より西の方へ多くかゝれり、其内神奈川領につゝまれるもの三村、四境をいはヾ、東の方はすべて橘樹郡稲毛領に接し、北の方は多摩郡府中領に交はり、夫より西の方へは同郡柚木・柚井の二領に連なりて、南よりは本郡の神奈川領に続け理。其領名をかうふる村々を隔てゝ、此領に属する村も少しくあれば、地形を以て領の廣狭は辨別しがたし、いづれも多摩郡につヾきたる地にして、領中おしなべて小山つらなれり、

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     黒須田村

     萬福寺村

     古澤村

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     黒川村 黒川村は、郡の北にあり、江戸日本橋へは凡八里餘の行程なり、民家すべて五十一軒、村の四境、東は多摩郡平尾村に接し、西は同郡小野路・乞田の両村にさかひ、南は本郡栗木村多摩郡眞光寺村に隣り、北は坂濱・蓮光寺の二村につヾけり、凡東西へは二十八町餘、南北十七町、村内すべて高低あり、土性は赤土野土或は眞土にて田畑も等分なり、村民蠶を育を業とす[小田原北條家所領役帳]には小山田庄黒川二十八巻四百十三文小山田彌三郎と記せり、御入國の後元和元年大阪御陣の戦功により、駒井右京進親直が采邑に給はれり、今も子孫藤十郎が知る所なり、檢地は明暦元年にありしかど、其人の姓名を傳へず、

 

高札場 鎮守汁守祠の邊にあり

小名 柳ゝ町 ろうば 以上二ヶ所共に北の方をいふ、七ツ谷 西の方を云、すくも塚 これも西の邊を云、丘の如くに見ゆ、今は丸山といへり、堀切 南の方をすべて唱ふ、 新井 字台ともいへり、東の方なり、

僧坊 村の中央なり、昔はこの邊に石薬師ありて側に庵あり、この字は其庵の遺名なりと云、今僧坊の文字解がたし、傳への謨あるべし、この坊後に西光寺へ移せりなどともいへり、

 此の村内に7ヶ所の谷あり、其所を始として、多摩郡坂濱百二村より流れ、いづる清水合して一流となり、村内を流るること凡二十八町にして坂濱村へ入る、流末にては三澤川と云、所によりては用水にも引用ゆ、されど村内多くは天水場にして旱損の地なり、

産物黒川炭 村民農業の暇には毎年九月より焼始て、三月を限とせり、黒川炭と唱へて、焼ことは當郡又は多摩郡にもあり、當村其もとなるべし、このことはいつの頃より焼そめしことは傳へざれど、近きことなるにや、

汁守明神社 除地、詳ならず、村の中央にあり、本社は拝殿へ造りかけて大さ二間に四間巽向なり、祭神を傳へず、本地は不動にて木の立像一尺ばかりなるを安せり、行基のと云、社前に鳥居を立、例祭八月二十八日なり、村内金剛寺の持

金剛寺 除地 二畝、村の西にあり、新義眞言宗、多摩郡坂濱村高勝寺門徒なり、墨仙山と號す、開山を詳にせず、客間五間に四間南に向ふ、本尊大日如来、木の坐像にて長一尺五寸ばかり、行基菩薩の作なりと云傳ふ、當寺は祈願のわざを専にして滅罪を事とせず、八幡社 客殿の東の方にあり、観音堂 同く東の方にあり、如意輪観音にて長一尺ばかり、堂は一間半に二間半なり 

毘沙門堂 行基の作にて、長七寸ばかりの坐像なり、

西光寺 除地、村の中央にあり、禅宗曹洞派、片平村修廣寺の末山なり、雲長山と號す、開山弧岩伊俊、嘉吉三年十月十日、寂す開基は西庵雲長と云人なり、文明元年五月二十九日寂す、石段九十八級を登りて客殿を建、九間に六間半巽向なり、本尊は釈迦の像なり、村民の持傳へし古き水帳によれば、観音免と記してあり、其頃の本尊観音なりしが、いつの頃にか、釈迦の坐像長八寸ばかりなるを置、運慶の作なりと云、又今僧坊とて、石薬師を安せし庵を此邊に立置しを、後廃してかの薬師は當寺の客殿に安す、長一尺の坐像なり、

 

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○栗木村

○伍力田村

○片平村

○上麻生村

○下麻生村

○王禪寺村

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  ・・・・・と続く

 

(ブログ管理人:原文に忠実に入力を試みたが、旧の漢字、言葉遣いなどの理解が足らない浅学のため、必ずしも原文に100%忠実であるとは言えません。学術的な目的等の場合には、必ず原文を参考にしてください。)