ふるさとの昔を考察する際に、貴重な文献として避けて通れないものの一つに「新編武蔵風土記稿」があります。今日は、「新編武蔵風土記稿」のなかで、黒川について触れている八十六巻をご紹介いたします。昔の記述を転記したため、原本に100%正確では無いことをお許し下さい。
ふるさとの昔を考察する際に、貴重な文献として避けて通れないものの一つに「新編武蔵風土記稿」があります。今日は、「新編武蔵風土記稿」のなかで、黒川について触れている八十六巻をご紹介いたします。昔の記述を転記したため、原本に100%正確では無いことをお許し下さい。
硬い文章ですがどうかお付き合いいただきたいと考えます。
「はるひ野・若葉台・黒川の生活事典」に記載されていたと言うことだけを記憶していただくだけでも、ありがたい事です。
新編武蔵風土記稿巻之八十六
都筑郡之六 小机領(二百三十一頁)
小机領は、郡中北の方より西の方へ多くかゝれり、其内神奈川領につゝまれるもの三村、四境をいはヾ、東の方はすべて橘樹郡稲毛領に接し、北の方は多摩郡府中領に交はり、夫より西の方へは同郡柚木・柚井の二領に連なりて、南よりは本郡の神奈川領に続け理。其領名をかうふる村々を隔てゝ、此領に属する村も少しくあれば、地形を以て領の廣狭は辨別しがたし、いづれも多摩郡につヾきたる地にして、領中おしなべて小山つらなれり、
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○ 黒須田村
○ 萬福寺村
○ 古澤村
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○
高札場 鎮守汁守祠の邊にあり
小名 柳ゝ町 ろうば 以上二ヶ所共に北の方をいふ、七ツ谷 西の方を云、すくも塚 これも西の邊を云、丘の如くに見ゆ、今は丸山といへり、堀切 南の方をすべて唱ふ、 新井 字台ともいへり、東の方なり、
今僧坊 村の中央なり、昔はこの邊に石薬師ありて側に庵あり、この字は其庵の遺名なりと云、今僧坊の文字解がたし、傳への謨あるべし、この坊後に西光寺へ移せりなどともいへり、
川 此の村内に7ヶ所の谷あり、其所を始として、
産物黒川炭 村民農業の暇には毎年九月より焼始て、三月を限とせり、黒川炭と唱へて、焼ことは當郡又は多摩郡にもあり、當村其もとなるべし、このことはいつの頃より焼そめしことは傳へざれど、近きことなるにや、
汁守明神社 除地、詳ならず、村の中央にあり、本社は拝殿へ造りかけて大さ二間に四間巽向なり、祭神を傳へず、本地は不動にて木の立像一尺ばかりなるを安せり、行基の作と云、社前に鳥居を立、例祭八月二十八日なり、村内金剛寺の持
金剛寺 除地 二畝、村の西にあり、新義眞言宗、
毘沙門堂 行基の作にて、長七寸ばかりの坐像なり、
西光寺 除地、村の中央にあり、禅宗曹洞派、片
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○栗木村
○伍力田村
○片
○上麻生村
○下麻生村
○王禪寺村
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・・・・・と続く
(ブログ管理人:原文に忠実に入力を試みたが、旧の漢字、言葉遣いなどの理解が足らない浅学のため、必ずしも原文に100%忠実であるとは言えません。学術的な目的等の場合には、必ず原文を参考にしてください。)
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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