太古の時代から近世までの黒川の沿革・歴史について、知って、考え、想像して見ませんか?
とてもわくわくすること請け合いです。
太古の時代から近世までの黒川の沿革・歴史について、知って、考え、想像して見ませんか?
とてもわくわくすること請け合いです。
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* 旧石器時代:黒川東(あずま)遺跡(黒川527〜540番地)から2万年前の石刃と掻器などが出土。
* 縄文時代:海道(かいどう)遺跡から草創期の有舌尖頭器が出土。若葉台遺跡・台(だい)遺跡・宮添(みやぞえ)遺跡・丸山(まるやま)遺跡から、中期の住居跡が多数発掘。
* 古代:不明
* 1305年(嘉元3年):鎌倉中期の銘を持つ板碑が存在。
* 1363年(貞治3年):関東管領上杉憲春施行状に「武蔵野国小山田荘内黒川郷半分事」とみえる。これが文献上の初見。(県史資料集、黄梅院文書){管理人注:時代は南北朝時代、お仁々局という女性が所有。}
* 1367年(貞冶6年):お仁々局が黒川郷の半分を円覚寺の塔頭(たっちゅう)黄梅院に寄進。{この項は、別資料から転載}
* 1387年(至徳4年):黄梅院(鎌倉円覚寺塔中)と高倉中務大輔の相論で、黄梅院に安堵される。この文書では、「小山田保内黒川郷半分」と記される。
* 1559年(永禄2年):『小田原衆所領役帳』に「小山田庄黒川 9貫413文 小山田弥三郎」と載る。
* 1590年(天正18年):徳川家康江戸入郷、徳川家領となる。
* 1615年(元和元年):大阪の陣の戦功により、駒井右京進親直に当地が与えられる。以後江戸時代を通して、旗本駒井氏の知行所となっていた。
* 17世紀半(正保年間):『武蔵田園簿』に「駒井氏知行 高90石 うち田方43石、畑方47石」と載る。
* 1655年(明暦元年):検地実施、家数51軒。
* 1702年(元禄15年):『元禄郷帳』には、「高260石7斗余」と載る。助郷は甲州道中布田五宿と出役した。
* 1719年(享保4年):幕府の御鷹場村に指定され、周辺の16カ村と共に御留村になる。この狩場の諸役負担は農民にとって甚だ過重であった。農間に炭を焼き、江戸へ出荷。「黒川炭」として評判をとる。
* 1834年(天保5年):『天保郷帳』によれば、「高260石7斗余」とある。この頃家数52戸。
* 1868年(明治元年):維新により 神奈川県管轄となる。
* 1874年(明治7年):大区小区制施行。7大区8小区
* 1878年(明治11年):郡区町村編成法施行。大区小区制廃止。都築郡
* 1888年(明治21年):この年の調査で、人口415、戸数69。農業32軒・商業2軒・農商兼業35軒。生糸30貫八王子方面へ出荷。木炭7000貫東京方面へ出荷。
* 1889年(明治22年):市制町村制施行。柿生村誕生、その大字となる。即ち柿生村黒川となった。
* 1914年(大正3年):汁守神社に村内の日枝社・八幡社・天王社の小祀を合祀する。
* 1939年(昭和14年):柿生村が
* 1962年(昭和37年):黒川に柿生発電所完成。
* 1971年(昭和46年):都市農業を目指す「農業振興地域」に指定される。
* 1972年(昭和47年):
* 1974年(昭和49年):小田急多摩線開通。黒川駅開設。京王相模原線開通。若葉台駅開設される。
* 1977年(昭和52年):黒川東(あずま)地区に農用地開発と区画整理を目的とした「土地改良区」ができる。2年後 昭和54年に黒川上(かみ)地区で同様な措置がとられた。
* 1882年(昭和57年):
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(出典)「川崎地名辞典(下) 日本地名研究所編 発行=
はるひ野・若葉台・黒川の皆さん!いかがでしたか?
黒川は、2万年前の旧石器時代の石刃などが出土していて、それから連綿と人の生活が営まれてきたという事実は、なにか暖かみとほっとするものが感じられます。
古代から私達が立っているこの黒川の大地で、人々の喜怒哀楽、喜び、怒り、哀しみ、楽しみを織り交ぜながら行われ、生れて、食べて、寝て、死ぬという繰り返しが行われてきて、今も同じ営みの繰り返しを私達が行っているのです。
昔の人々の生活を思い描きながら、改めて日常の営みを見直してみませんか!!
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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