わたし達の街・黒川には、六百年以上にわたり連綿と続く古刹「曹洞宗 西光寺(サイコウジ)」があります。
西光寺の歴史的な文献に基づくいわれなどについて、やや詳しく考察いたしましょう。
「新編武蔵風土記稿」の
京都ではその二年前の応仁元年に応仁の乱が起きています。
地方豪族や土豪の多くが庶民のため寺を建てたのもこの時期ですが、寺の北側に雲長の館跡と思われる「古屋敷」と言う地名が残っています。
寺はもともと九十八段の石段を登った高い所にありました。石段には「男坂」と「女坂」と呼ばれる2つがあり、男坂は急坂でまっすぐ本堂へ続くもの、女坂は「く」の字を描いて本堂へ続くものでした。ここに建てられた理由は、本道の裏に当たる北側には森(小高い山)があり、北からの冷たい冬の風を防ぐことができ、開けた南側からは暖かい空気が上昇し、冬、夏とも過ごしやすいからだといわれています。昭和四年(1929年)に鶴川街道沿いの今の場所に移されました。
黒川の開発による遺跡調査で、旧本堂跡地の北側より、黒川宮添(みやぞえ)遺跡と呼ばれる遺跡が発掘されると、平安期の地層より、寺の文字が入った土器が出土しました。これにより寺の歴史はさらにさかのぼることになりました。
本堂には、桃山時代の釈迦如来坐像(高さ26.7cmで、銅製の宝冠(かぶりもの)をつけており、宝冠釈迦像と呼ばれている)がご本尊として安置されています。
平成12年、本堂の天井に4.5m四方全面に墨だけで描かれた見事な龍の図―雲龍図―が完成しました。檀信徒の法事の時などにその素晴らしさに接することが出来ます。今にも飛んできそうな躍動感あふれる龍は、本堂の何処の場所にいても龍と目が会い、不思議な絵です。この雲龍図は12年毎の辰年に一般公開されます。一般の人は目にすることが難しいでしょう。
釈迦如来像を取り囲む形で、高さおよそ30cmの木造の十六羅漢像が安置されています。
境内にある石仏の一つである石薬師の座像は、市内ではただ一基、両手に薬壷を乗せています。太平洋戦争中には大島国民学校の疎開児童を受け入れたという歴史もあります。
(参考:「ふるさとへ」
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西光寺の釈迦如来坐像
桃山時代の仏教彫刻で、
霊長山 西光寺は曹洞宗のお寺ですが、「風土記稿」には「開山は弧岩伊俊、開基は西庵雲長」と記されています。
明治二十一年の「
山号の雲長山は、西庵雲長の名からとったものでしょう。
昔は九十八段の石段を登った高い場所にあったそうです。昭和四年(1929年)現在の場所に移されました。
境内の一隅には江戸時代前期、寛文八年(1668年)7月に造立された小さな薬師の石仏があります。両手の上に薬壷を載せている石薬師は珍しく、完全な形で保存されているのは市内ではこの一基だけだそうです。(
(参考:わがまち 麻生の歴史三十三話 高橋嘉彦著)
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武蔵風土記稿に記されている「西光寺」の記述を見てみますと、次の通りです。
新編武蔵風土記稿巻之八十六
西光寺 除地、村の中央にあり、禅宗曹洞派、片
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わたし達の祖先を祭る西光寺は、檀家の人たちのみならず一般の人も是非参拝されて、日本人の心のふる里を確認してください。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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