2005年11月28日

2万年前の黒川とその生活

今日は、前回に引き続き、はるか昔の2万年前の黒川とその生活について考察いたします。

当時の生活を頭の中に描きながらお付き合い下さい。


 

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2万年前に私たちの祖先が黒川に住み始めたころ、地球上はウルム氷期が最盛期をむかえていました。北半球を覆った氷河、氷床の発達で海水面は現在より100m近くも低下して東京湾は干上がって陸地でした。

 

氷河期

 

黒川の一番高い所の標高も二百数十mになっていたでしょう。(現在は148m) 間宮海峡も宗谷海峡も干上がって陸地となっていたのでシベリアのマンモスも北海道に渡っていました。

 

 

先土器時代の人々の生業は、狩と植物採集でした。3万年前には狩猟具として鋭いナイフ形石器を作っていました。ナウマン象やオオツノジカ、野牛などの大形動物を追って生活していました。

 

黒川東(アズマ)で発見された先土器時代の石器の周辺からは、石器と同時代の住居跡は発見されていません。人々は定住せず、住居も絶えず移動していたのでしょう。後の縄文時代の住居跡は、発見されています。

 

石器の発見された場所のすぐ下の谷戸には三沢川の源流があり、湿地帯から清水が豊かに湧き出しています。日当たりの良い南斜面です。

 

この場所から数キロの範囲を生活圏として、大形のけものが通りかかるのを待ち伏せしていたのでしょう。けものは食料となるほか、毛皮や牙などの貴重な資源を提供してくれていました。

 

黒川の古代人も大型動物の少ない時は、木の実や草の根を食べ、サル、イノシシ、タヌキ、キツネ、ニホンジカ、野ウサギなどの動物を食料にしていたものと思われます。

 

縄文草創期―弓矢の出現

この時代に弓矢の先端につける石鏃(セキゾク:矢尻)が出現。当時は土器を用いて煮炊きし、槍に代わって弓矢を使い、犬を助手として狩をするという生活だった。本州で最も古い時代に属する隆起線文土器が黒川で発見されています。

 

縄文土器

 

 

早期

早期の土器は文様によって橪糸文系土器郡(ヨリイトモン)、沈線文系土器郡(チンセン)、条痕文形土器郡(ジョウコンモン)などと分類されますが、これらも麻生区の黒川、五力田(ゴリキダ)で発見されています。

 

 

前期

縄文時代では気候が最も暖かくなり、海面が現在より4mも上昇した時期です。この時代の十三菩提式土器も黒川で発見されています。

 

最も栄えた中期―大型化する集落

加曽利E式土器が、この時代のもので遺跡の数も集落も増大しています。黒川の宮添地区に集落が確認されています。

 

後期・晩期―激減する遺跡の数

富士山が活発に活動し、天候不順が多かった時期です。黒川の丸山遺跡など、川崎市では数ヶ所しか知られていません。

 

川崎最古の隆起線文土器

日本で最も古い土器は、長崎県佐世保市の泉福寺洞窟で発見された豆粒文土器であるといわれます。これは今のところ長崎でしか発見されてません。

 

その次に古い土器と言われているのは、隆起線文土器で、本州最古の縄文土器です。この土器が黒川東(アズマ)、栗木第四の両遺跡から出土しており、川崎最古の縄文土器であるといわれています。

 

(出典:「わがまち麻生の歴史 三十三話」 高橋嘉彦著 )

 

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どうでしたか! 意外な事柄に、驚かれたことでしょう。

当時の人たちも私たちと同じような心の悩み、食べ物などの物の悩みを持っていたのではないでしょうか?

2万年前に思いを馳せて、考察してみてください。