いろいろな説があり、村の古老に尋ねることがベストと思いますが、今回は「柿生・岡上組合村誕生100年記念誌 屋号と家紋」という書籍に掲載されている「黒川の地名の由来と歩み」を転載させていただきます。
いろいろな説があり、村の古老に尋ねることがベストと思いますが、今回は「柿生・岡上組合村誕生100年記念誌 屋号と家紋」という書籍に掲載されている「黒川の地名の由来と歩み」を転載させていただきます。
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黒川の地名の由来と歩み
柿生、岡上の殆どは鶴見川水系なのに黒川だけは多摩川水系に属しています。
そのため昔は現在の
また、教育や日常の生活圏も現在の
炭=黒川炭といわれ産額の多かった黒川、炭の皮の色から黒川炭と呼ばれ クロカワになったとか、あるいは七ヶ所もある狭い谷から流れ出る谷川がおよそ28町(3km)も田んぼの畔(クロ)を流れるので クロカワと呼んだとか言われていますが、黒川炭の歴史はたかだか2〜300年。それ以前に黒河郷など黒川なる地名はあったわけですから、あたらないのではないでしょうか。土地の人は黒川を流れる三沢川には、黒くて丸いすべすべした照りのある石が沢山出て、終戦後など盆石に利用しました。こんなことも黒川の地名の由来ではないかといっています。
江戸時代には甲斐、武田の家臣であった旗本 駒井親直(甲斐武田の旧臣で、武田信玄と同じ清和源氏の流れを汲む家系)の知行地(管理人注:領地のこと)でした。明治初年、62戸363人を12の組合に分けていましたが、現在は9つの組合で上(カミ)、中(ナカ)、下(シモ)の3つの講中にまとまっています。
小字(コアザ)としては汁守神社を一番とする宮添(ミヤゾエ)から始まって東(アズマ)、谷(ヤツ)、柳町(ヤナギマチ)、海道(カイドウ)、西谷(ニシヤ)、広町(ヒロマチ)、明坪(ミョウツボ)の8字(アザ)に分かれています。
まだまだ静かな緑豊かな環境ですが、多摩ニュータウンの出現により小田急多摩線、京王相模原線が地内を並行して走り、それぞれ黒川、若葉台の駅もでき、一挙に便利になりました。
また、最近黒川駅近くには最新技術の研究施設マイコンシティが建設され、盛んに活動が始まっています。
一方、東(アズマ)の台地と西部には東(アズマ)、上(カミ)の二つの営農団地ができ、温室も軒を連ね野菜作りや観光農業地となっています。
多摩線、相模原線沿いには区画整理が計画されています。近い将来大きく変わることでしょう。(管理人注:これが現在の はるひ野 です。)
姓は市川姓が圧倒的に多く、立川、志村、越畑、川端、熊沢、梅沢、坂本、野島等となっています。川のつくのが多いのも黒川に関係があるのでしょう。
屋号としては地形、場所をあらわすものが半数以上のようです。海道(カイドウ)という字名があるように昔鎌倉街道の「早ノ道」跡と考えられ、「関場(セキバ)」「海道谷戸(カイドウヤト)等関係があるのではないかと思います。
鶴川街道筋はやはり主要道で、いろいろの店があります。(管理人注:昔は、傘屋、提灯屋、酒屋、棒屋等の店があったということ) 古い家があって本家、分家の関係をあらわす屋号がみられるのも特色でしょうか。
以下 黒川の屋号について54例を 「屋号(漢字表現)、所在地、家主、由来解説、家紋」の順で解説があり。
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かび臭いような内容のお付き合いをいただき、ありがとうございました。
地元の人は兎も角、聞きなれない地名には、へきへきしたのではないでしょうか?このほかの民俗資料にも、黒川の地名について考察されているのがあり、別の機会にご紹介したいと考えています。
今回は、黒川という地名のルーツに思いをはせていただければありがたいと考えます。
<追資料 1>
現在の「都市基盤整備公団 神奈川地域支社 黒川開発事務所」(旧 住宅公団、旧 都市整備公団)発行のはるひ野を紹介するパンフレット「ひとにやさしいまちづくり はるひ野」の中で、次のような説明をしています。
「黒川」の名の由来は、川の水が澄んで川底が黒く見えたためと言われています。
これは比較的新しい説明で、今までに無かった解釈です。この由来説明が、公的な立場の都市基盤整備公団で行われているため、後からの地名由来説明に関して、この説明が使われてきているケースがありますが、真偽は定かではありません。少しばかり説明する力が無い様に感じます。
<追資料2>
「新編武蔵風土記稿」の「黒川村」によると、真言宗墨仙(くろかわ)山 金剛寺は、上黒川(かみくろかわ)の毘沙門大堂の近くにありました。
この寺の山号から考えると、寺が造られた遠い昔から、すでに「黒川」の地名があったと思われます。(管理人注:今から1250年以上前)
廃寺(金剛寺)の近くにある毘沙門大堂には、行基(668年生まれ、749年82歳で病死)の作と伝えられている毘沙門天が祭られています。
金剛寺と毘沙門大堂が、同年代に存在していたと仮定すれば、毘沙門天の作者が行基であると伝えられているので、今から1250年前には真言宗墨仙(くろかわ)山 金剛寺と、くろかわ(黒川)の名前が存在していたと考えられます。
やまざる
川崎市黒川(当時の住所表示)の農家に生れる。
来世も菩提寺である黒川の西光寺で、永遠の眠りにつく。
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